設立経緯

日本蛋白質科学会が設立されたのは2001年のことである。ヒトゲノムのドラフト配列が発表になったのが、ちょうど同じ2001年のはじめであった。生命科学研究はゲノム時代を迎え、そしてやがてポストゲノム時代とよばれるフェイズにはいっていくわけであるが、当時の背景について、本学会のウェブサイトに2016年6月まで掲載されていた「沿革」から引用する。

二十世紀後半は生物科学・生命科学が急速に進展し、蛋白質構造・機能の研究もますます盛んになってきている。蛋白質は生物体の構築はもとよりあらゆる生物機能に関して中心的役割を果たしている物質であるから、生物機能を理解し、人間が健康を維持していくためにも蛋白質の研究が多角的に盛んに進められている。1970年代に遺伝子 DNA の塩基配列順序を解析する方法が出現してからは遺伝子に含まれる蛋白質のアミノ酸配列に関する情報を読みとることが可能になったばかりか、特定のアミノ酸配列を持った蛋白質を人為的に手易く合成することが可能になった。この遺伝子工学・蛋白質工学という技術的進歩が生物科学・生命科学に与えた影響は計り知れない程大きい。

種々の生物の遺伝子全体を含むゲノムの全塩基配列を明らかにすることが世界的に大きな課題として取り上げられ、ヒトのゲノムの全配列を明らかにするヒト・ゲノムプロジェクトが国際的な協力のもとに急速に進められている。塩基の配列を知ることは生物体の機能の理解のための一つのステップであるが、その先に必要なことは個々の蛋白質が持つ特定の立体構造と性質を明らかにすることであり、また蛋白質同士や蛋白質と他物質との相互作用を解析することである。こうして、あらゆる生理作用や病気のよって来たるところを蛋白質分子のレベルで解明することは生物科学を進めるだけでなく、医学的問題の解決や生物生産や生体関連物質生産など応用的課題の解決に役立てることができる。

このような状態にある蛋白質科学の研究者が研究情報を交換し、研究環境を整えて研究を進展させるために一つの組織を結成することは至極当然の成り行きであった。これまでわが国では蛋白質構造討論会が毎年一回開催され、1999年には第50回を迎えた。一方、日本蛋白工学会は蛋白質科学者の集まりとして毎年年会を開催するほか、この分野の国際的交流にも務めてきた。1998年からはこの二つの学会が合同年会を持つようになった。また、文部省の科学研究費重点領域研究から出発した「タンパク質の立体構造構築原理」ワークショップが開催されていたが、1999年には上記合同年会と同時開催とし、2000年にはこの三つの集会が全く融合した形で合同年会を持つことになった。三つのグループに重複して参加している人も多いので三つのグループは年会だけでなく組織として一本化し、さらに関連の研究者達にも呼びかけて新たに蛋白質科学に関係のある研究者の集合体を構築しようという気運が盛り上がってきた。

こうした流れの中で日本蛋白質科学会は2001年4月1日に日本蛋白工学会、蛋白質構造討論会、蛋白質立体構造構築原理研究会が母体となって発足した。

母体となった団体のなかで日本蛋白工学会が日本学術会議に登録された学会組織を持っていた為、日本蛋白工学会の改組改名という形で学術会議に届け出て、新しく日本蛋白質科学会がスタートしたが、実際には全く新しい学会が誕生したと受け取って頂きたい。

蛋白質科学の分野はゲノムプロジェクトの影響で急速に発展し、新世代を迎えようとしている。当学会は年会を通じ、若手研究者が構造から機能、新たな実験法から理論的計算、物理化学から生理機能に至るまで、世界的に著名な研究者の講義を聴く機会もあり、ポストゲノム時代における新しい世代の活躍を期待している。

さて、このような状態にある蛋白質科学の研究者が研究情報を交換し、研究環境を整えて研究を進展させるために一つの組織を結成することは至極当然の成り行きであった。これまでわが国ではタンパク質構造討論会が毎年一回開催され、1999年には第50回を迎えた。一方、日本蛋白工学会は蛋白質科学者の集まりとして毎年年会を開催するほか、この分野の国際的交流にも務めてきた。そこで、日本における蛋白質科学の纏まった組織を作ることをめざして、『蛋白質科学関係の学会組織を検討する委員会』が設けられ、1998年より、日本蛋白工学会とタンパク質構造討論会の合同年会が開催されるようになった。また、文部省の科学研究費重点領域研究から出発した「タンパク質の立体構造構築原理」ワークショップが開催されていたが、1999年には上記合同年会と同時開催とし、2000年にはこの三つの集会が全く融合した形で合同年会を持つことになった。三つのグループに重複して参加している人も多いので三つのグループは年会だけでなく組織として一本化し、さらに関連の研究者達にも呼びかけて新たに蛋白質科学に関係のある研究者の集合体を構築しようという気運が盛り上がってきた。「生体分子の構造に関する討論会」の流れを汲む「構造生物学シンポジウム」もこの流れに合流することとなる。こうした流れの中で、2000年6月の合同年会と並行して「日本蛋白質科学会設立準備委員会」が具体的な活動を開始し、日本蛋白質科学会は2001年4月1日に発足した。なお、母体となった団体のなかで日本蛋白工学会が日本学術会議に登録された学会組織を持っていた為、日本蛋白工学会の改組改名という形で学術会議に届け出て、新しく日本蛋白質科学会がスタートしたが、実際には全く新しい学会が誕生したものと認識されていた。(本項文責 遠藤斗志也)

設立直後の時期

日本蛋白質科学会は、2001(平成13)年4月1日に発足し、第1回の年会は、月原冨武(阪大・蛋白研・教授)を年会長として大阪大学コンベンションセンターで開催された。一般講演(ポスター)365件、記念講演9件、シンポジウム3テーマ18件(内公募型1件)、ワークショップ8テーマ57件からなった。発足当時の会員数は約800件(正会員673件、正会員学生138件、賛助会員7件)であり、会員参加者700名、祝賀会参加者270名を想定したが、実際の年会参加者は967名、祝賀会参加者は322名の大盛会となった(蛋白質科学会ニュースレターVol. 1, No.2, 2001)。準備した要旨集の数が足らず、当日参加者88名(一般57名、学生31名)については、急きょ、要旨集なしの割引参加とした。米国に拠点をおく Protein Society との連携が重要と考え、第1回の年会には Protein Society 会長 Christopher Dobson 教授(Oxford Univ., UK)を招聘した。ところが、ご家族の急病により、Protein Society の副会長であった Nick Pace 教授(Texas Univ., USA)が代理で来日し、蛋白質立体構造の安定性に関する記念公演を行った。

年会期間中開催した理事会では、設立準備会のメンバーを中心に、正式な会長や理事などの役職について選挙を行うことを検討し8月31日締め切りで、新会長1名、新理事18名の選挙を行った(蛋白質科学会ニュースレターVol. 1, No.3, 2001)。選挙の結果、三浦謹一郎氏が初代の会長に選出された。なお、役員の継続性から、理事の半数は平成15年3月まで、残りは平成16年3月までとした。

学会の発足当時は、理事会を頻繁に行った。第1回年会前の2001年5月12日、年会期間中の6月2日に暫定理事会を行った。正式な理事会が発足してからは2001年10月5日、10月24日(生化学会期間中)、12月22日、2002年3月23日に行った。3月23日の理事会では、第2回の名古屋での年会とともに、既に Protein Society 会長 Dobson 教授から提案のあったジョイント・ミーティングを実現するものとして2004年度の国際会議が議論された。

2002(平成14)年度の第2年会は、郷通子(名古屋大学大学院理学研究科・教授)を年会長として、名古屋国際会議場で開催された。参加者は754名であり、発表件数は、シンポジウム3テーマ20件(内公募型1件)、ワークショップ8テーマ48件、一般講演(ポスター)304件、ランチョンセミナー11件からなった。第4回年会を2004年4月に、第1回環太平洋蛋白質科学国際会議(The 1st Pacific-Rim International Conference on Protein Science, PRICPS)を兼ねて行うことが決定された。同会議は日本学術会議との共同開催であり、組織委員会は、蛋白質科学会の役員が兼任した。

2003(平成15)年度の第3回年会は、稲垣冬彦(北海道大学大学院薬学研究科・教授)を年会長として、札幌コンベンションセンターで開催された。参加者は904名であり、発表件数は、シンポジウム2テーマ9件、ワークショップ14テーマ90件、一般講演(ポスター)360件、ランチョンセミナー11件18セミナーからなった。

2004(平成16)年度の第4回年会は、大島泰郎(東京薬科大学・教授)を年会長として、第1回PRICPSと合同の国際会議として、パシフィコ横浜で4月14–18日に開催された。第1回 PRICPS は、Protein Society との合同会議でもあった。メインテーマは、“New Approaches to Structure and Function of Proteins in Pacific Rim” であり、3つの記念講演、6件のシンポジウム、15件のワークショップ、それにポスターセッション(480件)やランチョンセミナーなどからなり、約900名(うち招聘者は100名)が参加して、極めて活発な発表と討論が行われた。特に第1回年会に来日を中止した Christopher Dobson 教授が参加して、蛋白質科学の国際連携の重要性を述べた。なお、第2回の PRICPS は2008年にオーストラリアのケアンズで開催され、会議の名称を Asia Pacific Protein Association(APPA)と変えて今日に継続して発展している(http://www.pssj.jp/APPA/index.html)。また、APPA の事務局は日本蛋白質科学会に置かれている。

2002–2004年度にかけての重要な活動として、男女共同参画ワーキンググループの発足がある。2003年度には「男女共同参画学協会連絡会」にも加盟して、蛋白質科学会として男女共同参画に積極的に取り組むこととなった。そして、発足から数年となり、会員数1000名の学会として、2004年の年会を、環太平洋蛋白質合同会議として開催するなど、国内外の蛋白質科学の振興に大きな貢献を果たすに至った。しかしながら、このような発展の最中、第1回環太平洋蛋白質科学国際会議の直後に、日本学会事務センターの預かり金流用問題、破産という前代未聞の事件が起こった。蛋白質科学会ニュースレターVol. 1, No. 2 (2001) によると、蛋白質科学会は、合同年会(主として蛋白質構造討論会)と日本蛋白工学会から合計約1000万円を引き継いだ。蛋白質科学会の経理は日本学会事務センターに委託してきたが、同社の破産によってこれらの資産のほとんどを失うという危機を迎えるに至った。(本項文責 後藤祐児)

学会事務センター破産前後

蛋白質科学会は創設以来、学会の会計を文科省管轄下の学会事務センターに委託してきた。学会事務センターは約300におよぶ学会の会員業務(名簿管理、会費徴収、学会誌の配布)や学術集会の開催などを受け持っていたが、2004年7月初旬、即ち第1回環太平洋蛋白質科学国際会議(PRICPS:4月14日–18日)から 約3ヶ月後になって、訴訟問題が絡む財政危機問題が表面化した。この問題に関して、学会事務センターが行った民事再生法申し立ては東京地方裁判所によって却下され(8月9日)、同事務センターの破産が確定した。

詳細は生物物理誌に書いた記事に譲るが、学会事務センターは東京と大阪に事務所を持ち、本学会は大阪事務所に業務を委託していた。東京と大阪では学会から委託された資金の運用の仕方が異なり、東京事務所では、学会ごとにそれぞれの口座を管理し、保証上限である1千万円を超えると、別の口座を開設して余剰分を移すという運用がなされていたが、大阪事務所ではすべての資金を「預かり金」として一括して運用していた。このことが災いして、本学会は蛋白合同年会(主として蛋白質構造討論会)と蛋白工学会から引き継いだ計約1千万円の資産をすべて失ってしまうこととなった。

文科省は関係諸学会の窮状を救うために年会開催の補助などを打ち出したが、その時点で蛋白質科学会はすでに年会を終了しており、その恩恵にあずかることができなかった。第1回 PRICPS の会計の締めが終わってからであったのは不幸中の幸いであった。

学会事務所は当座大島泰郎会長の研究室である東京薬科大学生命科学部大島研究室に移され、直ちに、理事会において次に業務を委託すべき会社についての検討が行われた。その結果、阪大蛋白研の関係者が内部事情もよく承知している株式会社ペプチド研究所の子会社である千里インターナショナルにお願いすることになった。千里インターナショナルはそれまでペプチド学会の業務を行うのみで、学会運営の活動を広げる計画はなかったが、蛋白質科学会ならば、ということで引き受けていただいた。事務局は2005年1月に正式に千里インターナショナルに移転した。

この間、ニュースレターを通じて会長より2004年10月22日付けで会員の方々に「お詫びとカンパのお願い」のお知らせを行ったところ、約130名に及ぶ多くの会員の方からご入金をいただき、募金は145万5千円に達した(蛋白質科学会ニュースレター Vol. 4, No. 5, 2004)。そのうち50万円を直ちに次期年会準備委員会(第5回九州年会)に送ることができ、こうしてかろうじて難局を乗り切ることができた。その後、多くの関係者のご尽力と蛋白質科学の追い風に助けられ、本学会の会計は数年のうちになんとか元の状態に復帰された。(本項文責 有坂文雄)

学会発展期

2004年の学会事務センター破産に伴い、十分な運転資金を確保できるまで、学会の運営は魅力的な年会を開催することに集中された。2002年から2006年の5年間、多くの学会員が関与した「タンパク3000プロジェクト」が進められ、その後も、後継プロジェクトとして「ターゲットタンパク研究プログラム」が2007年から2012年までの5年間実施された。これら蛋白質科学分野の大型プロジェクトが追い風となり、年会参加者数は毎年順調に伸び続け、学会の運営は次第に健全性を回復していった。全資産を失うという大きな危機を乗り越え、蛋白質科学会は発展期を迎えるに至った。

2007年度の学会会計では、次年度繰越金が1000万円を超えるまでに回復し、阿久津会長の判断により、若手研究者の活発な研究活動を奨励する積極的な活動を開始することにした。若手育成担当理事が新設され、若手育成のための事業内容を理事会中心に検討して、第8回年会(2008年、田中啓二年会長)において若手賞の表彰を開始した。学生、PD および助教相当職在籍者を対象とした若手奨励賞、学生の優秀なポスター発表を表彰するポスター賞の2つのカテゴリーでスタートした。これまでと異なる新しい企画であり、賞の認知度も心配されたが、若手奨励賞には61名、ポスター賞には101名の応募があった。厳正な審査の結果、3名の奨励賞と12名のポスター賞が表彰された。この後、現在に至るまで若手奨励賞、ポスター賞の表彰が続いている。

また、同じ時期である2009年に広報担当の萩原義久理事を中心に蛋白質科学アーカイブ活動が開始された。蛋白質科学会構成員がもつ専門知識を広く一般に公開するため、オンラインジャーナル形式でプロトコール集や総説・講義、オピニオンやエッセイ、さらに新着情報などが集積されている。2015年現在では、月間43,000件のページビューと30,000件近いダウンロードがあり、蛋白質科学分野の幅広い話題を提供する貴重な情報源に成長している。(本項文責 栗栖源嗣)

学会法人化

2010年頃から、任意団体として活動している中小規模の学協会において、一般社団法人や NPO 法人への移行が検討されるようになった。学会を取り巻く環境としては、2013年から「創薬等支援技術基盤プラットフォーム」が実施されており、学会は一層の発展が期待される状況にあった。任意団体のままでは、会長個人名義で運営資金全額を管理するなど学会運営の規模に見合った形態であるとは言い難い状況になっていた。そうした中で2012年、中村春木会長は法人化 WG を設置し、事務局業務を委託している千里インターナショナル(現在は一般財団法人蛋白質研究奨励会)を交えて、法人化のメリット・デメリットの具体的検討を開始した。慎重審議の結果、学術活動のみならず規模に見合った社会的責任を果たすため、法人格を取得する基本方針を決定した。2013年6月の通常総会において一般社団法人に移行することが承認され、2014年度より一般社団法人日本蛋白質科学会として新たに活動を開始した。法人化に際しては、一般財団法人蛋白質研究奨励会より支援金50万円をご寄付頂き、法人設置のための初期費用に充てさせて頂いた。改めてここに謝意を表する。(本項文責 栗栖源嗣)

附記

附記1

第1回の討論会は「第2回生物科学シンポジウム議題、蛋白質」という名のもとに東京科学博物館講堂で開かれ(1950年7月12〜14日)、主催団体は民科理論生物学研究会と蛋白質研究会となっている。「蛋白質構造討論会」という名称は正式には第2回討論会(1951年5月20日、大阪大学理学部)で初めて用いられているが、このときの主催団体は蛋白質研究会と日本化学会近畿支部であった。以後、第10回までは日本化学会(およびその支部)、蛋白質研究会、日本生化学会、高分子学会、大阪大学蛋白質研究所などが単独あるいは合同で主催する形になっている。「蛋白質研究会」なるものがこの討論会発足に重要であったことがうかがえるが、詳細は不明である。第11回〜第14回までは、日本化学会が主催団体となっている。ただし実際には第○回と回数名を付して呼ばれるようになったのは第15回からである。第17回の討論会(1966年11月23〜24日、京都大学薬学部、世話人山科郁男)から名称を「タンパク質構造討論会」と変更した。第49回の討論会は蛋白合同年会(長岡98)として第10回日本蛋白工学会年会と合同開催(1998年9月24〜26日、長岡リリックホール、世話人三井幸雄)、第50回の討論会は蛋白合同年会(横浜99)として第11回日本蛋白工学会年会と合同開催(1999年6月15〜17日、神奈川県民ホール、世話人阿久津秀雄)、第51回の討論会は蛋白合同年会(東京2000)として第12回日本蛋白工学会年会、第7回タンパク質立体構造の構築原理ワークショップと合同開催(2000年6月7〜10日、学習院創立百周年記念会館、世話人三浦謹一郎)の形で行われた。

附記2

日本蛋白工学会は1988年に設立され(初代会長は池原森男氏)、日本のタンパク質工学研究の発展に尽くしてきた。2001年4月1日に「日本蛋白質科学会」に改名改組し、実質的に解散した。第1回日本蛋白工学会年会は1988年12月19日に東大理学部化学教室講堂で開催されている。日本蛋白工学会の母体として、1985年頃に発足した「蛋白工学研究会」という名称の会合があった(その前身として「蛋白質懇話会」なる研究集会があったという話もある)。大島泰郎氏のエッセイ「蛋白質科学会設立のころ」には、

「1985年ころ次田皓先生の呼びかけで、蛋白工学研究会が発足した。第1回の会合は、翌1986年4月に開いている。次田さんは始めるとき千谷晃一さんと相談したと言っているが、比較的少数のサロン風の会合を描いていて、人数を拡げることに消極的だった。この雰囲気は1988年から学会「日本蛋白工学会」(通称 蛋工会)になっても続き、会員数を維持するのに苦労する遠因だったように思う。88年12月に開催された第1回の年会開催時、会員数は188名、年会の参加者は141名だったが、うち34名が非会員だった。「蛋白工学研究会」のサロン風会合は学会成立後も2年くらい続いている。」

と記されている。

「第9回日本蛋白工学研究会」は1989年1月14日に蛋白工学研究所で開かれている。なお日本蛋白工学会が設立された1988年に、同学会とも関係が深い株式会社蛋白工学研究所が基盤技術促進センター(特殊法人)と民間14社の共同出資のもとに設立されている(初代所長は池原森男氏)。実際、蛋白工学研究会が正式な学会組織に変わるきっかけは、蛋白工学研究所所長の池原森男先生が、第2回の Protein Engineering 国際会議を引き受けられ、そのためには学会組織があると準備しやすいとのことであった(→大島泰郎氏のエッセイ)。ちなみにこの国際会議は1989年に神戸で開催されている(Protein Engineering ‘89)。

蛋白質工学会は1994年に日本学術会議により4部に所属する学会として承認されたことから、いったん改組改名の形をとり、その後2001年に日本蛋白質科学会に改組改名するまで続いた。

附記3

「蛋白質科学関係の学会組織を検討する委員会」の立ち上げについては、その当時、長岡科学技術大におられた三井幸雄教授(故人)が大変尽力された(これについては、蛋白質科学会アーカイブに収録されている「わが国の蛋白質研究発展の歴史」の阿久津先生の文章を参考下さい)。

蛋白質工学会ニューズレターVo. 13-1(2000年4月28日発行)に、三浦謹一郎氏から以下の報告がある(原文のまま)。

○蛋白質科学関係の学会組織を検討する委員会の報告(2000年4月現在)

委員会世話人 三浦謹一郎

従来 蛋白工学会年会と蛋白質構造討論会は独立に開かれてきましたが、両方の会に出席する人も多く、たまたま長岡技科大の三井幸雄氏がそれぞれの会から97年の年会を開くことを要請されたときに三井氏が両方の会を同時に開く合同年会の形式でならと開催を引き受けられました。97年のこの合同年会のときにはこれからこういう方式を続けてみようという機運が強まり、将来は学会組織としても合同を検討してみようという意見も出てきました。長岡の初の合同年会の時にはこの問題について有志が集まり、「蛋白質科学関係の学会組織を検討する委員会」を作ることになり、三井氏の提案で次次回の年会を担当することになった三浦謹一郎が取りまとめをするよう依頼されました。

99年には横浜で阿久津秀雄氏が98年の会と同様な形式で合同年会を開くよう計画されましたが、京大の郷信広氏が主宰される科研費郷重点研究「タンパク質立体構造の構築原理」ワークショップも加わる形で開催されました。三浦が依頼された学会組織検討委員会も蛋白合同年会横浜1999のときにはひろく皆様の御意見を伺う会を開きました。このとき集まられた方々の意見を集約すると、「この3グループの集まりにはかなりオーバーラップがあることを考え、新しい一つの学会を組織する方向に進めてよい」と判断されました。もちろん、「方向としてはよいが、時期尚早ではないか?」という意見もありましたが、2001年を目途に新学会組織を作ることを具体化する要望がかなり多いと判断いたしました。

「学会組織を検討する委員会」はその後検討を進めましたが、3グループが新しい学会を組織するという意見が盛り上がり、2000年に入ってからは委員会メンバーを数名追加して「新学会準備委員会」に切り替えることにいたしました。このような事態になったことは蛋白工学会としてもいろいろな問題があったためです。「蛋白工学」という言葉がかなり狭い領域のことに対象を限定しているように見られるためか、会員数が伸び悩み、学会として学術会議の研究連絡委員会に加入するなどの資格を失うことになりかねない状態になってきているという問題が深刻になっていました。蛋白工学会は名称や中味を検討しなければならない時期にきていたということであります。蛋白質構造討論会は口頭発表のみで1題にかける時間も長く、まとまった話をゆっくり聞くことができるという長所がありましたが、若い人の参加が少なくなってきたという悩みがありました。一方、「タンパク質立体構造の構築原理」グループは郷重点のときから新しいメディアを使って情報交換を行うシステムを作り上げ、毎年開くワークショップでは多数のポスター発表を引き受けしかもグループ以外の人にも広く門戸を開放しているということが若い人達を惹きつけてワークショップのときには多数の人が参加するようになっていました。重点研究が終了してからも「タンパク質の立体構造構築原理研究会」という形でワークショップや情報交換を続けることになりましたが、安定した運営方法を望む状態でありました。

3グループの構成員はかなり重複しているという現実や上記のような各グループの状態から、「3グループは融合して一つの学会組織に結集しよう」ということはほとんど自然の成り行きという気持ちを多くの人が抱くようになったようです。そればかりか、新世紀に入る現在、タンパク質科学というものはゲノムプロジェクトの急速な進展によって今後のライフ・サイエンスを支える基礎的分野として極めて重要な位置を占めることが明白な状態となってきました。この時期に蛋白質科学に関係する研究者が、情報交換や研究環境の向上につとめて研究の発展を図るために一つの学会組織を作り上げることはむしろ当然のことといえましょう。そして、こういう稀な機会ですから、単に3つのグループが寄り集まって新しい一つの組織に移行するというよりも、生体機能にとって必需品である蛋白質の機能を明らかにしていくためにこれまでのメンバーだけでなくてもっと広い範囲の関係研究者にも参加していただけるような新しい学会を発足させるという方針で行くということが「新学会準備委員会」の意見です。ただ実施面では、3グループのうち学術会議に登録している学会組織を持つのは日本蛋白工学会だけですから、事務的にはこの学会の改名改組ということで新組織への移行を進めるということが準備委員会でまとまった意見です。

新学会設立の方針は今年度合同年会のときに(3日目)公表し、設立総会は2001年に月原冨武氏が世話人となって大阪で開催が予定されている蛋白合同年会の前日に大阪で行い、蛋白合同年会は新学会の第1回年会として開くということにしました。2001年に第1回年会をすれば年会の回数は21世紀の年と同調することになります。

「蛋白質科学関係の学会組織を検討する委員会」は「蛋白質科学新学会準備委員会」に移行しましたが、2000年4月までの状況の概要を述べました。現在の準備委員会の名簿を以下に記します。とくに御意見がある方はこの名簿の内の一人にご連絡下さい。

阿久津 秀雄(阪大・蛋白研)・有坂 文雄(東工大・生命理工)・大島 泰郎(東京薬大・生命科学)・甲斐荘 正恒(都立大・理)・鏡山 博行(大阪医大)・北川 禎三(分子研)・熊谷 泉(東北大・工)・倉光 成紀(阪大・理)・桑島 邦博(東大・理)・郷 信広(京大・理)・後藤 祐児(阪大・蛋白研)・鈴木 紘一(東大・分子細胞生物研)・田中 啓二(都臨床研)・田之倉 優(東大・農)・月原 冨武(阪大・蛋白研)・中村 春木(阪大・蛋白研)・永山 国昭(生理学研)・西村 善文(横浜市大)・三浦 謹一郎(学習院大・理)・三木 邦夫(京大・理)・森川 耿右(生物分子工学研)・横山 茂之(東大・理、理研)・吉田 賢右(東工大・資源化学研)・和田 敬四郎(金沢大・理)

附記4

文部科学省科学研究費補助金重点領域研究「タンパク質の立体構造構築原理」の活動(本附記の文責:桑島邦博、油谷克英)

(1)重点領域研究「タンパク質立体構造の構築原理」の活動

1991年度より、総合研究(B)「タンパク質立体構造の構築原理を解明するための基礎研究」(班員:油谷克英(代表)、桑島邦博、郷信弘、大島泰郎、月原冨武、阿久津秀雄)などにより本重点領域研究の準備がなされた。地道な調査研究によって領域が採択され、総合研究(B)「タンパク質立体構造の構築原理」(代表者:郷信弘)による、第1回「タンパク質立体構造の構築原理」ワークショップが1994年12月に名古屋で開かれた。1995年度から4年間実施された本重点領域研究の参加者数は、初年度51名(計画班員15名、公募班員30名、班友6名)であった。当初、班員間の情報交換のため電子メールによるニュースレターが発行されたが、1996年6月より、重点領域に関わりなく一般の研究者の参加を求め、PRC(Protein Research Communication)という電子メールサービスとなった。ニュースレターの発行数は、98年には66号を数え、ニュースレターを受け取っている会員数は600数十名に達した。このメールサービスは日本蛋白質科学会に引き継がれている。第2回から第5回まで「タンパク質立体構造の構築原理」公開ワークショップが毎年12月に開かれ、その招待講演のプログラムは別表の通りである(第2回第3回第4回第5回)。本重点領域研究は、わが国のこの分野の研究の活性化に大きな寄与をしたと思われる。公開ワークショップには、400人を超える参加者があり、200件を超える一般ポスター発表が行われ、特に多くの若手研究者が生き生きと発表、議論に参加していた。外国からの招待講演者もわが国のこの分野の研究がきわめて活発であることに強い印象を受けたようであった。また、本重点領域研究と密接な関係にある学会である生物物理学会の関連分野の発表件数を調べると、1993年の蛋白質(構造、物性など)関係の発表件数は114件であったが1998年の秋には、226件に倍増した。わが国で、この分野が急速に発展していたことを示している。そこには、潜在的な学術的な要請があったことは当然であるが、本重点領域研究の役割も大きかったと思われる。

(2)「タンパク質立体構造の構築原理」研究会の発足

重点領域研究(1998年度より特定領域研究)「タンパク質立体構造の構築原理」が最終年度を終えようとしている時期に(1999年1月)、日本の蛋白質科学の発展のためには、本重点領域研究が関わってきた physics-minded research が蛋白質研究の一部として不可欠であり、将来の「蛋白質科学会」においても重要な一分野であることを主張することが重要であるとの認識に至り、「タンパク質立体構造の構築原理」研究会が発足した。その詳細な経緯、規約等は PRC ニュースレター No. 99.02(1999年1月11日号)に載っている。また、一般に向けて、第14回「大学と科学」公開シンポジウム「生物の働きを生み出す、タンパク質のかたち」も1999年11月11、12日に神戸国際会議場で開かれ、定員700名の会場に703名の参加者があった。

附記5

蛋白質工学会ニューズレターVo. 13-2(2000年7月24日発行)に、2000年の合同年会に関して、三浦謹一郎氏から以下の報告がある(一部のみ抜粋、原文のまま)。

この蛋白質科学関係の3グループが合同年会を契機に組織としても一つになって新学会を結成しようという動きについてはすでに新学会準備委員会からの報告としてこの3グループには伝えられ、今回の合同年会の会期中にそれぞれのグループで新学会移行が確認された。これを受けて合同年会第3日夕刻、懇親会の前に特別の時間を設けて準備委員会の世話人から新学会設立の説明を行ない、参会者の協力を要請した。

新学会の名称は「日本蛋白質科学会」とし、近く発起人を募り、新学会設立を実行に移し、2001年5〜6月に大阪で開かれる新学会第1回年会の前日に設立総会と設立記念行事を行うことが報告された。  本年会の実施に当り、多数の方の御協力をいただき無事終了することができた。この場を拝借して御協力いただいた方々に感謝の意を表したい。また、来年度は新しい組織のもとに蛋白質科学の集会がスタートし、成功することを祈りたい。

そして蛋白質工学会ニューズレター Vo. 13-4(2000年12月19日発行)に、蛋白合同年会東京2000での申し合わせに従って、日本蛋白質科学会第1回年会開催の告知が載った。蛋白質工学会ニューズレター Vo. 14-1(2001年3月29日発行)には、歴代の日本蛋白工学会会長(池原森男、次田晧、千谷晃一の各氏)による新学会設立に向けての小文と、最後の日本蛋白工学会会長となった大島泰郎氏による以下の挨拶文がある(原文のまま)。

○最後の会長を引き受けて

大島泰郎

偉大な創始者から数えて、3代目で身上をつぶすという諺?があるが、私は3代目ではないものの、会長役を引き受ける時点では幕引きを演ずるとは思わなかった。というより、もし幕引き役まで事態が進行すれば万々歳だが、そう望み通りにはいくまいという気持ちであった。

日本蛋白工学会と長い伝統を持つタンパク質構造討論会を合同して日本のタンパク質科学の研究者をまとめた組織を作る考えは本学会が創設された直後から語られてきた。しかし、一般に二つの学会組織を合同させることに成功した例は少なく、かなりの時間をかけた根回しが必要というのが大方の見方であった。

次第に合同への声が高くなり3年前、会長職をお引き受けしたとき、故三井幸雄氏が合同年会を開催されることとなった。この時はまだ、「試行」という気持ちがあり、次年度も合同するかどうかは必ずしも約束されたことではなかった。私が幕を引くことになるとは、思わなかったのはこのような背景があったからである。ただ、私の役目ははっきりしていた。日本蛋白工学会の理事会は、ほぼ一致して本学会が日本の関連研究者をまとめた組織を作ることに努力すべきというものであったから、合同年会から始まった流れを太くすることが私に課せられた仕事であると認識していた。それも拙速を避け、あせらずたゆまずが肝要と自分に言い聞かせた。

事態が急進展したのは、いくつかの要因があったのであろう。新興の重点領域研究「タンパク質立体構造の構築原理」の開催する研究会に若い研究者が詰めかけ、学会をしのぐ盛況ぶりとなったことから来る両学会の危機感や、期限の来る重点領域研究に代わってこの若い研究者の熱意を吸収する受け皿とならなければと云う使命感が大きな要因に違いない。故三井先生、その後の合同年会を引き受けた阿久津先生、さらにとりまとめの大役を務められた三浦先生の真摯な努力も勿論である。

多少我田引水と映るかもしれないが、それに加えて日本蛋白工学会が、小さな規模ながら学術会議の登録学会として活動していたことや、これまたかぼそいながらも新学会創設のための集会などを支えるに足る財政基盤を持っていたことも大同団結の下支えとなったことを指摘した。これらはいずれも、これまでの会長が残された遺産である。幕引きの3代目らしく、私はこの遺産の上に座っていただけである。

このように私自身は貢献したといえるほどのことは何もしていないが、それでも今、学術会議に改名の手続きをとって、会長としての最後の仕事を終えるのでホッとしている。それに、本学会は手造りで、はじめは次田先生のもとで、1992年10月からは東工大生命理工学部、さらに1995年4月からは東工大と東薬大が分担して事務局を勤めてきた。学会事務も、4月からは学会センターに移る準備が進められているので、私としては二重の意味で肩の荷が下ろせると安堵している。この間、事務、編集や経理に尽力された東工大の田中信夫先生、有坂文雄先生、東薬大の高橋健治先生、田中研の沼山文子さん、それに現在は海外にいるが今でも時に E-mail で相談にのってもらっている博士研究員の林-岩崎容子さんに学会を代表して深く感謝いたします。

そして、同じ蛋白質工学会ニューズレター Vo. 14-1に、蛋白質工学会会長の大島泰郎氏による日本蛋白工学会解散の告知文がある(原文のまま)。

○最後の、そして「重要」なお知らせです!

かねてからお知らせしていましたが、4月1日から日本蛋白工学会は改名改組し新学会{日本蛋白質科学会}に移行いたします。これは実質的には本学会を解散し、新学会を立ち上げるものですが、公式な手続きとしては本学会が改名する形を取り、その旨を日本学術会議に届け出いたします。こうすることで、例えば本学会から日本学術会議に科学研究費の審査員候補者を推薦することが継続して出来ることになります。新規に結成された学会の場合は、少なくとも3年間は学術会議に登録できず、一人前の学協会として扱われません。

日本蛋白工学会の会員諸氏に対しては、この機会に継続して新学会「日本蛋白質科学会」の会員として登録するかどうかを伺います。本学会理事会としては会員を継続されることを強く望みます。今後も継続して新学会「日本蛋白質科学会」の会員として活動を希望される場合は、何の連絡も必要ありません。会費や会計年度も従来通りですので、このまま新学会の会員に登録されます。連絡先や所属が変更されている場合はその旨ご連絡下さい。なお、新学会の事務は学会センターが担当いたしますが、事務の移転が完了したときに、改めてご連絡いたしますので、それまでは従来通り現在の事務局宛にご連絡ください。この機会に退会を希望される方は、その旨ご連絡下さい。3月31日付けをもって退会の手続きをいたします。

日本蛋白工学会は、1988年にそれまで「蛋白工学研究会」という名称で会合をもっていた組織をベースに設立され、12年余にわたりタンパク質工学の研究の発展に尽くしてきました。特に、神戸において国際会議を開催するなど、我が国のこの分野の研究活動の活性化に相当な貢献をしてきたと思います。最近は、日本蛋白工学会の年会の参加者が、会員の総数の2倍にも当たるという他に例を見ない活発な、また寛容な学会でした。この間に、大型の文部省科学研究費重点研究「タンパク質立体構造の構築原理」が成立するなど研究環境もまた学問の潮流も変化してきました。学会のパートナー的な存在であった「蛋白工学研究所」も期限が来て改組し、名称は消えてしまいました。 新学会への移行は、潮時という感じもあります。  ニューズレターもこの号を最後に、新学会のニューズレターに引継ぎをいたします。最終号となる紙面を借りて、学会運営に対するこれまでの会員諸氏の御協力に感謝いたします。

平成13年2月
日本蛋白工学会 理事会
同 会長 大島泰郎

附記6

「生体分子の構造に関する討論会」は、日本化学会における生体分子の構造研究者が集まって1974年にスタートした。1986年に、より機能を意識した研究を採り上げるために「生体分子の構造と機能に関する討論会」へと名称を変更した。やがてタンパク質や核酸などの生体高分子を中心とする分子構造に基づいて生命の仕組みを解明しようという構造生物学の勃興を背景として、構造生物学を中心とする「構造生物学シンポジウム」(1996年)と生体分子科学を中心とする「生体分子科学討論会」(1997年)へと発展的に解消された。構造生物学シンポジウムの発起人は森川耿右(生物分子工研)、月原冨武(阪大・蛋白研)、三井幸雄(長岡技科大)、若林健之(東大・院理)、中村春木(生物分子工研)、嶋本伸雄(国立遺伝研)、大澤研二(名大・院数理)、横山茂之(東大・院理)、西村善文(横浜市大・院総合理)、京極好正(阪大・蛋白研)の各氏であった。「第1回構造生物学シンポジウム」は1996年7月27日に横浜で西村善文氏を世話人として開催された。このときは招待講演のみで、「第23回生体分子の構造と機能に関する討論会」(最後の同討論会)の直後に開催される形であった。「第2回構造生物学シンポジウム」は1997年10月8〜9日に京極好正氏を世話人として大阪で開催され、発表は広く一般から公募されて行われた。「第3回構造生物学シンポジウム」は1998年9月28〜29日に嶋本伸雄氏を世話人として三島で開催された。「第4回構造生物学シンポジウム」は1999年7月22〜23日に稲垣冬彦氏を世話人として東京(日本薬学会長井記念ホール)で開催された。1999年10月22〜23日に日経ホールで開催された「大学と科学公開シンポジウム〜遺伝子産物(タンパク質)の形を観る:構造生物学とは何か?」において、関係者の間で、構造生物学シンポジウムが日本蛋白工学会・タンパク質構造討論会の合流を視野に入れた蛋白質科学に関する新学会に参加するかどうかの議論が行われた。「第5回構造生物学シンポジウム」は2000年6月29〜30日に甲斐荘正恒氏を世話人として東京(東京都立大学国際交流会館)で開催された。このときの昼食会で、正式に構造生物学シンポジウムが2001年発足予定の日本蛋白質科学会に合流することが合意され、構造生物学シンポジウムは第5回をもってその幕を閉じた。このときの話し合いで、構造生物学シンポジウムを日本蛋白質科学会年会の中に「構造生物学ワークショップ」として残す方針が決まり、実際、2001年6月1〜3日に大阪大学で開催された「第1回日本蛋白質科学会年会」(世話人は月原冨武氏)では、オーガナイザーが選定したスピーカーとポスター発表から選んだスピーカーによる15演題の発表から成る「構造生物学ワークショップ」が行われた。しかしながら、この方針は蛋白質科学会に公式に引き継がれていなかったことから、2002年6月13〜15日に名古屋国際会議場で開催された「第2回日本蛋白質科学会年会」(世話人は郷通子氏)では「構造生物学ワークショップ」を冠したワークショップの開催は実現しなかった。

日本蛋白質科学会設立に向けて関係者が検討を行った「蛋白質科学関係の学会組織を検討する委員会」および「蛋白質科学新学会準備委員会」の世話人であり、日本蛋白質科学会の初代会長となった三浦謹一郎氏による学会設立に至る経緯の記述の中には、日本蛋白質科学会設立の母体として「タンパク質構造討論会」、「日本蛋白工学会」、「タンパク質の立体構造構築原理研究会」の3つの組織の名前が出てくるが、「構造生物学シンポジウム」の名称は出てこない。これは、先の3組織が合同の研究集会を持ったという実績があったのに対して、「構造生物学シンポジウム」は目に見える形での合同の実績がなかったことがあるのかもしれない。しかしながら関係諸氏の証言によれば、「蛋白質科学関係の学会組織を検討する委員会」および「蛋白質科学新学会準備委員会」に参加していた「構造生物学シンポジウム」関係者は、「構造生物学シンポジウム」が新学会に合流する可能性について明確な問題意識をもっていたのであり、それを受けて「大学と科学公開シンポジウム」および「第5回構造生物学シンポジウム」という2回の機会に新学会への合流について検討を行い、最終的に合流を決断したのである。

附記7

「日本蛋白質科学会設立準備委員会」は2000年6月の合同年会の頃から、蛋白質科学会の発足に向けて、具体的な活動を開始した。同ホームページには、発起人リスト、日本蛋白質科学会設立趣意書(2000年8月)、蛋白質科学関係の学会組織を検討する委員会の報告(2000年4月)、学会会則(案)、細則(案)、設立準備委員会の名簿、などが掲載された。

更新履歴

2016年6月
全面的に加筆・修正しました。