大腸菌による重水素・N15・C13 ラベル化法(改訂)

横浜市立大学・生命医科学研究科

Bacterial expression of proteins labeled with stable isotopes, \(\ce{^{15}N}\), \(\ce{^{13}C}\), and \(\ce{^{2}H}\)
Yokohama City University
Takahisa Ikegami

  • キーワード核磁気共鳴NMRM9最少培地安定同位体重水
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概要

核磁気共鳴(NMR)による解析を目的とした蛋白質の調製には、おもに大腸菌による発現系が利用される。それは、NMR の観測に必要な \(\ce{^{15}N}\),\(\ce{^{13}C}\),\(\ce{^{2}H}\) などの安定同位体を蛋白質に導入するのが容易だからである。この標識(ラベル)用の培地は最少培地と呼ばれ、[\(\ce{^{15}N}\)]-塩化アンモニウムや \(\ce{[^{13}C]}\)-グルコース以外には窒素源や炭素源を原則として含んでいない。そのため、大腸菌はこれらの安定同位体試薬を栄養源として取り込みながら成長、分裂し、蛋白質を合成する。その結果、発現された蛋白質は、これらの安定同位体で一様に標識されることになる。本プロトコールでは、出来るだけ発現効率の高い最少培地の作り方や培養時の注意点などについて述べる。特に、高価な標識体の溶液は、経済的な観点より、植菌直前に培地に添加することが重要である。培養に要する日数は、培地に入れる標識試薬の種類によって大きく異なるが、一般的に普通の LB などの富栄養培地の場合に比べて2~3倍程度は長くかかる。

装置・器具・試薬

  • 恒温振盪培養器 3 L 程度のフラスコが振盪できるもの(各社)
  • 遠心機(各社)
  • 濁度計(各社)分光光度計でも可
  • オートクレーブ(各社)
  • バッフルフラスコ、あるいは、坂口フラスコ(リンゴ形)2~3 L 1個
  • 大腸菌コンピテントセル(各社)
  • LB 寒天培地 アンピシリン、カナマイシンなどベクターに対応する抗生剤を含む1枚
  • LB 培地 3 mL
  • 最少培地(下記の成分を含む)1 L 分
    1. 10 × 塩溶液(100 mL に溶かしてオートクレーブ処理)

      \(\ce{Na2HPO4}\) 7.0 g(49.31 mM × 10)
      \(\ce{KH2PO4}\) 3.0 g(22.04 mM × 10)

      水和物試薬を使うときはモル数をもとに計算しなおすこと。
      この緩衝液の調製で自動的に pH 7.15 程度となる。

      \(\ce{NaCl}\) 0.5 g(8.56 mM × 10)

      \(\ce{Na+}\) と \(\ce{K+}\) の合計濃度を計算すると 130 mM の生理的塩濃度となる。

    2. ビタミン&核酸溶液(約 880 mL に溶かしてオートクレーブ処理)

      チミジン (T) 20 mg
      アデノシン (A) 20 mg
      グアノシン (G) 20 mg
      シチジン (C) 20 mg

      以上はリン酸基のついていないヌクレオシドでよい。

      チアミン 20 mg ビタミン B1
      ビオチン 20 mg ビタミン H

      水に溶けにくく浮き易いものもあるが、オートクレーブすると溶ける。

      10 mM \(\ce{FeCl3}\) 5.0 mL 1~10 mLの範囲で可能
      1 M \(\ce{MgSO4}\) 2.0 mL \(\ce{MgCl2}\) ではない。唯一の硫黄源
      50 mM \(\ce{MnCl2}\) 1.0 mL  
    3. 安定同位体標識体(20 mL に溶かしてフィルター処理)

      \(\ce{[^{15}N]-NH4Cl}\) 2.0 g  
      \(\ce{[^{13}C]}\)-グルコース 2.0~4.0 g \(\ce{^{15}N}\)/\(\ce{^{13}C}\) 標識の場合
      \(\ce{[^{2}H]}\)-グルコース 2.0~4.0 g \(\ce{^{2}H}\)/\(\ce{^{15}N}\) 標識の場合
      \(\ce{[^{2}H,^{13}C]}\)-グルコース 2.0~4.0 g \(\ce{^{2}H}\)/\(\ce{^{15}N}\)/\(\ce{^{13}C}\) 標識の場合
      重水 \(\ce{D2O}\) 50~99.9% \(\ce{^{2}H}\) 標識の場合

      上記のいずれの標識パターンにおいても \(\ce{^{15}N}\) では標識するものとする。

    4. 50 mM \(\ce{CaCl2}\) 2.0 mL
    5. グリセロール 1/1000 (v/v) \(\ce{^{15}N}\) のみの一重標識の場合
      \(\ce{[2H]}\)-グリセロール 1/1000 (v/v) \(\ce{^{2}H}\)/\(\ce{^{15}N}\) 標識の場合
    6. 抗生物質 50~100 μg/mL それぞれのベクターに対応する
    7. \(\ce{ZnCl2}\) 20 μM Zinc-finger 蛋白質の場合

実験手順

以下は、蛋白質を実際に安定同位体 \(\ce{^{15}N}\),\(\ce{^{13}C}\),\(\ce{^{2}H}\) などで標識することを前提に書かれている。安定同位体試薬の中でも特に \(\ce{[^{2}H (, ^{13}C)]}\)-グルコースや重水(\(\ce{D2O}\))などの重水素を含む試薬は、依然として高価である。そのため、一度も最少培地での発現を試したことのない試料の場合は、事前に非標識培地での「シミュレーション発現」を一度は試してみることをお勧めする。その場合、\(\ce{[^{2}H (, ^{13}C)]}\)-グルコースの代わりに、普通(cold と呼ぶ)のグルコース(葡萄糖)を使用しても、培地の溶媒が軽水(\(\ce{^{1}H2O}\))の場合は、大腸菌の成長や蛋白質の発現の程度はほとんど同じになるはずだが、軽水の代わりに重水を利用した場合には格段に低下する。そのため、重水による培養だけは、いわば一発勝負のようなところがある。なお、\(\ce{[^{15}N]}\)-塩化アンモニウムに至っては、かなり価格が下がってきたので、むしろその後の精製に利用するカラムのレジンや融合蛋白質の切断用酵素の方がより高価になってきた。そのため、\(\ce{^{15}N}\) だけの標識のために非標識の試料を何度も発現しては精製し培養法を最適化するという方法は、必ずしも得策とは言えない。蛋白質が \(\ce{^{15}N}\) で標識されていれば、50 μM,300 μL という量でも二次元 \(\ce{^{1}H}\)–\(\ce{^{15}N}\) HSQC をとることができ、その結果から、その蛋白質の NMR 解析が可能かどうかを判定できるので、\(\ce{^{15}N}\) のみの標識は「シミュレーション発現」ですでに取り入れても良いのではないかと考えている。また、上記の安定同位体試薬は注文毎に輸入される場合があるため、時期によって価格が大きく変動したり、一度に購入する量によっても単価が数倍の幅で上下する。そのため、初めて蛋白質の標識化を試みる研究室は、試薬の購入においても注意が必要である。

第1日

  1. 目的プラスミドの大腸菌への形質転換
  2. 培地の作製
  3. 前培養(pre-culture)

第2日

  1. 本培養(main-culture)
  2. 発現誘導
  3. 集菌
  4. 精製

実験の詳細

第1日

1. 目的プラスミドの大腸菌への形質転換

M9 最少培地 100 mL への植菌(前培養 pre-culture)までは、LB などの富栄養培地を利用した「大腸菌を用いた組換え蛋白質の発現-スタンダードプロトコール-(萩原義久著)」と全く同様の手順であるので、これら共通の箇所については簡単に記述する。

大腸菌 BL21(DE3) は、最少培地での培養にも比較的強く、また、pET ベクターなどにコードされた目的蛋白質の発現用に大量培養ではよく用いられる。以降は、この T7 プロモータ系の発現系を想定して記述する。さらに目的に応じて、例えば、毒性のある蛋白質などで発現誘導を厳密に制御したい場合は pLysS 型(プロメガ社)を、真核生物由来のコドン使用頻度に適応させたい場合は Rosetta™ (DE3)(メルク社(Novagen))を、ジスルフィド結合を効率良くかけたい場合には、Origami™ (DE3)(メルク社(Novagen))などを選択すると良い。その他にも、mRNA を安定化させる BL21 Star™ (DE3)(ThermoFisher社)、低温培養で高活性のシャペロンを発現させる ArcticExpress(Agilent社)などもある。

目的のプラスミドで大腸菌を形質転換する方法は、エレクトロポレーション法でもヒートショックを伴った塩化カルシウム(\(\ce{CaCl2}\))法でも良い。形質転換した大腸菌は LB プレートに蒔き、コロニーが成長してくるのを待つ。最少培地による培養前に、この操作を行う方がよい。グリセロールストックを前培養の最少培地などに直接植菌して開始することも可能ではあるが、なるべく避けた方がよい。それは、最少培地は LB 培地などとは異なり栄養分が少ないために、大腸菌の成長がたいへん遅く、そのためグリセロールストックから長時間をかけて菌を起こすなどの処理を行うと、菌が全滅してしまったり目的外の菌が混入して成長してしまい、予想外に蛋白質の発現量が少なくなるといった状況になることが多いためである。

真核生物由来の蛋白質においてそもそも発現量が少ない場合、コドン使用頻度の問題が原因かもしれない。NMR解析用に特に重水素化蛋白質を調製する場合には、この発現量が成果に大きく影響しかねない。レアコドンの tRNA を補充するように設計されたコンピテントセルを使うことで克服できる場合もあるが、思い切って大腸菌のコドン使用頻度に最適化した配列に DNA を合成しなおす方が早道の場合も多い。あるいは、DNA の 5’ 側に転写がスムーズに進むようなタグをつけるとよい。筆者の経験では、コドン使用頻度の最適化により、今度は発現しすぎて蛋白質が封入体に移ってしまうことが多いようである。そして、その場合には ArcticExpress を使うことにしている。レアコドンは、リボゾームから出てきた新生ポリペプチド鎖が N 末端側から正しくフォールドするためのタイミングを与えているのかもしれず、真核生物のコドン使用頻度をそのまま反映するように大腸菌のコドンを選ぶとよいのかもしれない。

2. 培地の作製

上記の「試薬」の項に1から7までの番号が振られているが、これらを別々に作成しなければならない。

  1. 10 × 塩溶液(オートクレーブ処理)
    M9 培地とは本来はこの塩溶液のことを指す。ナトリウムとカリウムの合計が大腸菌に対する浸透圧を考慮して生理的食塩水濃度になるように調合される。さらに、第一リン酸と第二リン酸のモル比から pH が7より若干高めに設定される。そのため、水和物試薬から秤量する場合には、記載された重さではなく、モル濃度で合わせること。例えば、\(\ce{Na2HPO4}\) であれば 7 g を秤量するところであるが、その水和物 \(\ce{Na2HPO4 \cdot 12H2O}\) の場合には 18 g を秤量することになる。大腸菌は成長とともに乳酸などの物質を分泌するため、このような緩衝剤の入っていない LB 培地などでは、培養が進むとともに培地の pH が下がってしまい、そのため菌の成長が途中で止まってしまう。最近の酸性雨の影響のためか、pH を調整せずに作成した LB 培地の pH が5付近だったこともある。それに対してこの M9 培地ではリン酸緩衝液が入っているため、pH の低下を防ぐことが出来る。もし、窒素源や炭素源、その他のミネラル、ビタミン類も豊富に入っていれば(特に \(\ce{^{15}N}\) のみの標識の場合など)、LB 培地と遜色ない発現量が得られることもある。大量の塩は少し溶けにくいが、オートクレーブすると溶ける。重水培養の場合は、これらを重水でよく溶かし、原則としてフィルター処理する(「工夫とコツ」参照)。
  2. ビタミン&核酸溶液(オートクレーブ処理)
    最少培地とは、\(\ce{[^{15}N]}\)-塩化アンモニウムや \(\ce{[^{13}C]}\)-グルコース以外に窒素源や炭素源が無いような培地のことである。そのため、大腸菌はこの安定同位体試薬を吸収、代謝して生きなければならず、自らの細胞成分はもちろんのこと、合成した蛋白質など全てが安定同位体で均一標識されることになる。

    試薬として入れる核酸やビタミン成分などは、もちろん安定同位体でない \(\ce{^{12}C}\) 炭素源、\(\ce{^{14}N}\) 窒素源、\(\ce{^{1}H}\) 水素源の混入の原因となる。しかし、少しの混入でも大腸菌がある程度は育ち蛋白質を合成してくれる方を選ぶのが良いと思われる。\(\ce{^{1}H}\) の混入については、特に超高分子量の transfer cross saturation 実験に利用するのでなければ問題とはならない。それぞれ 20 mg/(L 培地)という指標であるが、適当にミニスパチュラ一杯程度の量でよく、厳密に秤量する必要はない。

    チアミンやビオチンなどのビタミン類がすぐに溶けない場合がある。オートクレーブすれば溶けるのであまり気にしなくてもよいが、容器から容器へと溶液を移す際、容器の内壁に付着したまま残ることがあるので、できるだけ本(前)培養で実際に使用するフラスコに直接これらの試薬を入れるようにしたい。なお、バッフルの付いたできるだけ大きなフラスコを選ぶ。最少培地ではエアレーションが少なめであると失敗することが多いためである。重水培養の場合は、試薬類を重水で溶かし、原則としてフィルター処理する(「工夫とコツ」参照)。

  3. 安定同位体標識体(フィルター処理)
    \(\ce{^{15}N}\) のみの一重標識(single-label)の場合は、\(\ce{[^{13}C]}\)-グルコースではなく、普通の cold グルコースを 4 g/L 入れる。さらに、グリセロールも追加すると、充分量の炭素源となる。グルコースをあまり多量に入れ過ぎるとかえって発現量が落ちる場合もある。特に IPTG ではなく、アラビノースで発現を誘導する araBAD プロモータなどを含めたベクターを利用している場合には注意が必要である。グルコースの添加は発現をほぼ完全にブロックしてしまうが、これは catabolite repression と呼ばれる現象による。その他の各種ビタミン、ミネラル類の追加、さらに pH を調整してくれる緩衝効果のため、LB 培地の場合とほとんど同程度の量の蛋白質が得られる。

    \(\ce{[^{13}C(/^{2}H)]}\)-グルコースの量は、一般的には多い方が良い。しかし、経費がそれだけ上がるので、各自の財布と相談する必要がある。まれに、このグルコースの量が少ない方が、ゆっくりと翻訳され、結果として目的の蛋白質がうまくfoldするような例も見られる。

    極めて100%に近い重水素化を施したい場合には、必ず \(\ce{[^{13}C(/^{2}H)]}\)-グルコースを入れないといけない。逆に、50%程度の重水素化率に設定したい場合は、(\(\ce{[^{13}C]}\)-)グルコースを50% \(\ce{D2O}\)/50% \(\ce{H2O}\) の培地に入れる。しかし、側鎖の全ての炭素に一様に50%の比率で \(\ce{^{2}H}\) が付加する訳ではない。一般的にα位置の水素は培地の溶媒の重水素化率を反映しやすいのに対して、その他の部位は、むしろ添加したグルコースの水素原子をそのまま保持しやすい。\(\ce{^{13}C}\)/\(\ce{^{1}H}\) の化学シフト値は、1~2結合を通して近くにある \(\ce{^{2}H}\) の数に応じてシフトする(同位体シフト)。そのため、メチル基には \(\ce{^{13}C^{1}H3}\),\(\ce{^{13}CD^{1}H2}\),\(\ce{^{13}CD2^{1}H}\) などのアイソトポマーが存在し、二次元 \(\ce{^{13}C}\)–\(\ce{^{1}H}\) 相関スペクトルでは3つのピークがずれて見えてしまうという問題が生じる。

  4. その他のカルシウム、(\(\ce{[^{2}H]}\)-)グリセロール(\(\ce{^{13}C}\) で標識しない場合)、亜鉛(zinc-finger 蛋白質の場合)を準備する。また、「工夫とコツ」の覧に記載されているような、各種ビタミン、ミネラルも作成しておくと、極めて効率の高い発現が得られる。
  5. 以上を間違えないように混ぜ合わせる。しかし、ここでの最大の注意点は、決してオートクレーブ後の熱い状態で混ぜないことである。これらを別々に作成する理由は、熱い状態では糖とミネラルなどが結合して一種の毒素が出来てしまうためである。できれば、前日に作成して、翌日に混ぜ合わせるようにしたい。しかし、どうしても急がないといけない場合は、(水相)振盪培養器に入れて振ると良い。静置して冷ますよりも何倍も早く冷える。

リン酸カルシウム類は水に溶けにくいので、(10 × 塩溶液)の中に直接、カルシウム溶液を入れない。(ビタミン&核酸溶液)の方にカルシウム溶液を入れるが、それでも混ぜた時にリン酸カルシウムなどの白い沈殿が見えることがある。これらは数回振って拡散させる。振らずにミネラル類を追加していくと、局所的に金属濃度の高い箇所が生じ、予期せぬ沈殿を生じてしまうかもしれない。

前培養(pre-culture)100 mL と本培養(main-culture)900 mL を別々に作成しても良いし、一旦いっしょに混合してから 1:9 に分けてもよい。後者の方が、もし、pre-culture で菌が生えてこなかった場合には、main-culture の培地についても何かが間違っているかもしれないと予想できるので良いかもしれない。なお、いずれの場合でも高価な標識体溶液は最後に混ぜること(本培養の培地に標識体溶液を加えるのは翌朝の植菌直前に!)。同位体試薬を入れていない状態の培地では、雑菌や酵母も増殖しにくい。前培養の結果、失敗作だと分かった本培養の培地から、すでに混ぜてしまった標識体だけを精製分離することはよく受ける相談であるが、無理と思って諦める。なお、重水は蒸留操作により回収することも可能であるが、純度が7割程度に落ちてしまう。

3. 前培養

前培養の最少培地(100 mL)を30℃に温めておく。

コロニーが充分に成長してきたらそのうちの1個(あるいは10個程度でもよい)を拾い、LB 培地 3 mL に植菌して数時間37℃で振盪培養する。LB 培地に充分に菌が生えている状態(\(\mathrm{OD_{600nm}} = 0.5\) 程度)が、晩に帰宅する一時間前ぐらいになるように計画すると良い。

この培地を 1 mL ほどエッペンドルフチューブにとり、軽く遠心分離(5,000 rpm,5 min)してから上清を捨てる(菌が遠心操作により弱り過ぎないように注意)。沈殿している菌体に前培養(pre-culture)の最少培地(あるいは、生理的食塩水)を 1 mL ほど加えて撹拌し、その前培養のための M9 最少培地(100 mL)に植菌する。ただし、遠心分離を行うと冷えてしまい、大腸菌の成長が一時的に停止することがある。そのため、富栄養培地の混入がほとんど影響しないような実験(例えば、二次元 \(\ce{^{1}H}\)–\(\ce{^{15}N}\) HSQC など)のためだけであれば、3 mL の富栄養培地から 0.5~1.0 mL ほどを抜き取り、遠心せずにそのまま前培養の最少培地 100 mL に植菌するのもよい。それでも最終的な混入は 1/1,000 程度である。

Over-night で翌朝まで27–30℃程度で振盪培養する。37℃で培養すると、12時間後には菌が成長し過ぎている場合が多い。また、発現蛋白質が毒性を持つような場合、この前培養時に(IPTG 無しでも)少し漏れて発現してしまった蛋白質が full-growth の菌体を弱らせてしまうこともある。もっとも良いタイミングは、翌朝の \(\mathrm{OD_{600nm}}\) が0.8付近になることであるが、そのための培養温度と振盪速度は個々の実験環境によって異なるので、ある程度調整すると良い。

第2日

4. 本培養

朝一番で前培養 100 mL の \(\mathrm{OD_{600nm}}\) を測定する。あるいは、目視により充分に白く濁っていれば前培養は成功であり、本培養も同様に成功する確率が高い。一方、前培養でそれほど育っていない場合は、一度37℃に温度を上昇させ、3~5時間ほどさらに培養を続けてみる。それでもあまり菌が成長して来ない場合は、前培養の培地の作成が間違っている可能性が高い。そして、本培養も同様に間違っているかもしれないので、本培養の培地に高価な標識体溶液を入れずに、すぐに中止する。

このように前培養の成否を見届けてから本培養に進むようにすると、標識体の大半を無駄にしないで済む。しかし、100%近くの重水培養の場合は菌体の成長してくる速度が2~3倍も遅い場合があるので、前培養でそれほど生えていなくても希望を捨てずに37℃に温度を上げて培養を続ける方がよいかもしれない。一方で、本培養培地の pH を pH 試験紙などで確認してみよう。また、チアミンとビオチンを念のため追加で入れておくと良い。

本培養の培地 900 mL を37℃に温める。実際に培養する培養器で振盪すると10分程度で暖まる。このように、植菌を行う場合はいずれにおいても、冷えた環境の培地に移さないようにすることが重要である。充分に温まったら、前培養の培地 100 mL を本培養の最少培地 900 mL に付け足す。

そのまま37℃で振盪培養する。ほとんどの蛋白質の発現では大量の酸素を必要とする。そして、最少培地での培養では、この酸素量が発現量などに顕著に効いて来ることが多い。ただし、あまり酸素(空気)を大量に入れ過ぎて、蛋白質が大量に高速に翻訳されてしまうと、封入体になってしまうこともあるので、培養条件は個々の実験で調整して欲しい。この充分な空気量が重要であるため、フラスコによる振盪培養よりかは、ジャーファーメンタを用いる方がかなり効率が高い(ただし、水蒸気からの \(\ce{^{1}H}\) の混入が多くなる)。

重水培養の場合は振盪をあまり激しくできない。それは、空気とともに水蒸気が培地に混入し、培地の中の重水の割合が培養時間とともに下がってしまうためである。しかも、重水培養は発現誘導後も含めて時に1~2日に及ぶこともあるため、水蒸気から混入する軽水はかなりの量となる。そのため、ファーメンターで空気を送り込む場合は、必ず大量の乾燥剤を通したドライエアを使う(「工夫とコツ」参照)。

5. 発現誘導

個々の実験によって異なるが、およそ、\(\mathrm{OD_{600nm}}\) が0.4~0.5付近で IPTG などの試薬により発現誘導を開始する場合が多い。朝の10時頃に前培養から本培養に植菌したとすると、正午から夕方5時ぐらいの間に発現誘導をかけるタイミングになる。しかし、\(\ce{[^{13}C]}\)-グルコースの量が少ない培地や重水培地などでは、菌の成長が遅く、夜になってからやっと発現誘導をかけ、翌朝に集菌することもある。

6. 集菌

培地の組成によって最終的な菌体の濁度は異なる。およその目安として、\(\ce{^{15}N}\) 標識のみの培養では \(\mathrm{OD_{600nm}}\) が1.2~1.5程度、\(\ce{^{15}N}\)/\(\ce{^{13}C}\) 標識では0.7~1.0程度(\(\ce{[^{13}C]}\)-グルコースを何 g/L 入れるかによって大きく異なる)、\(\ce{^{2}H}\) 標識では0.7~0.8程度になることが多い。

7. 精製

その後の精製法は、普通の非標識試料の場合と全く同じである。たとえ、重水素を標識として含んでいても、精製時は普通の軽水をもとにした buffer を使う。

重水で培養した直後は、アミド基の水素も \(\ce{^{2}H}\) で標識されている。しかし、このアミド基の水素は、\(\ce{^{1}H}\) に戻さないと NMR の各種測定法で何も観測されないことになってしまう。実は、アミド基の水素は溶媒の水素と化学交換を起こすので、精製時の溶媒の \(\ce{^{1}H}\) がアミド水素の位置に入ってくることが多い。それに対して、炭素に結合している側鎖領域のほとんどの水素は溶媒の水素とは通常の条件下では化学交換しない。ところが、大きな安定な蛋白質では、構造内部深くのコア領域には溶媒の水が接近しにくいため、何ヶ月待ってもいっこうに \(\ce{^{1}H}\) に置き換わらない場合が多い。これが、大きな蛋白質を NMR で解析する場合の一つの問題となっている。対策としては、pH を8程度に上げた状態で数日間放置したり、一度、塩酸グアニジンや尿素などで変性させてから(変性状態ではアミド水素が容易に入れ替わる)もう一度巻き戻しをさせるなどの操作が考えられる。しかし、このような手荒な処理にも耐えられるような蛋白質だけが NMR の観測にかかっているのが現状である。

工夫とコツ

最少培地に入れるべき品目を列挙したチェックシートの作成

蛋白質を安定同位体で標識するには、まずそれ専用の培地を失敗なく作成することが重要である。しかし、時に入れるべき品目を入れ忘れたり、あるいは量を一桁間違えたりすることがよく起こる。これを防ぐにはチェックシートを作成し、混ぜたものから順に印をつけるなどの工夫をした方が良い。

重水最少培地における(ビタミン&核酸溶液)の滅菌処理

重水培養の場合は、核酸やビタミン類を重水で溶かし、オートクレーブしないでフィルター処理する。オートクレーブでは水(重水に対して軽水と呼ぶ)が混入してしまうためである。しかし、フィルターで処理すると、溶けていない試薬類は全て濾し取られてしまうことに注意してほしい。滅菌処理になっていないという意見もあるが、当研究室ではフィルターをかけた後に再度少量の試薬を追加で入れている。なお、重水素核(\(\ce{^{2}H}\))は核磁気共鳴では観測可能な核種であり、実際に固体 NMR のみならず、溶液 NMR においてもメチル基の重水素核の磁気緩和実験などで観測の対象となっている。しかし、高分子量の蛋白質の特に側鎖の水素の位置を重水素で置換する方法の大きな目的は、\(\ce{^{13}C}\) 核や残りの \(\ce{^{1}H}\) 核(例えば、アミド \(\ce{^{1}H}\) 核)の横緩和時間を伸ばして感度を上げるためである(TROSY 法においては、アミド \(\ce{^{1}H}\) 核の縦緩和時間を伸ばして \(\ce{^{15}N}\) 核のダブレットピークが混ざらないようにする目的も含まれる)。したがって、\(\ce{^{2}H}\) 核が観測の対象になっていない場合が多い。そういう意味では、「重水素で標識する」という表現はあたかも標識された重水素核を観測対象とする印象を与え、正確な表現とは言えないかもしれない。

なお当研究室では、最近は重水培地に対してオートクレーブもフィルター処理もいずれも行わない。それは、きわめて重水素化率の高い試料を調製したいためである。NMR 測定において \(\ce{^{1}H}\)–\(\ce{^{15}N}\) HSQC-TROSY や HN(CO)CACB-TROSY などだけが目的であれば、\(\ce{^{1}H}\) の数パーセントの混入は大した害にはならない。しかし、超高分子を対象とした transfer cross saturation(TCS)実験で使う \(\ce{^{2}H}\) 化試料では、混在した \(\ce{^{1}H}\) がアーティファクトを生み出すと、相互作用部位を間違えて検出してしまうことになる (1)。滅菌操作をまったく行わない培地で培養を成功させるためには、さまざまな工夫が必要であるが、もっとも重要なことは、次のより大きなスケールの培地には大量に植菌することである。長い時間培養すると、培地中の抗生物質が分解されて目的の菌体以外の雑菌が生えてくる。しかし、常に目的の菌が培地内で圧倒的多数を占めているように工夫すると、そのような雑菌が成長してくる前に発現や集菌を終わらせることができる。

10 × 塩溶液の作成において、筆者はまだ重水素化したリン酸試薬を使ったことはない。しかし、\(\ce{^{1}H}\) の混入を減らすために、できるだけ水和物でない試薬を使って欲しい。

最少培地における(ビタミン & 核酸溶液)のミネラルの量

鉄とマグネシウムの量は、以前の執筆 (1) より少し多めに設定している。その方が良い結果が得られる。その理由の一つとして、これらの試薬に含まれる微量のその他の金属(contamination している trace metal)が意外にも必要なためである。そのため、あまり純粋すぎる高級試薬よりも、むしろ低純度の試薬の方が良い。\(\ce{FeCl3}\) の量についても10倍の量幅で記載した。当研究室ではいつも最大量を入れており、そのため M9 培地が赤茶色に見えるが、菌は非常によく育つ。それを超えると鉄の毒性により収率が下がる (2)。

培地の水(重水培養を除く)

培地を溶かす水は、以前はイオン交換水を使用していた。しかし、最少培地では微量のミネラルが多種不足する場合が多いことを考慮し、試しに古い建物(錆びた水道管)の水道水を使ってみたことがある。すると、全く発現しなかった蛋白質が再現性よく大量に発現した。以降、当研究室では水道水をそのまま使っている。

さらなるミネラルの追加

M9最少培地にさらに何を加えれば効率が上がるかを学生さんたちといろいろ試したことがある。しかし、バナジウムは一部の清涼飲料水に入っているように心臓には良いが、大腸菌には毒素となるのか、せっかくの大腸菌が全滅してしまったこともあった。さらに下記のような追加試薬を入れると良いかもしれない。

7. \(\ce{ZnCl2}\) 20 μM(zinc-finger 蛋白質の場合)
  2.0 μM(zinc-finger 蛋白質でない場合)
8. \(\ce{CoCl2}\) 0.4 μM
9. \(\ce{CuCl2}\) 0.4 μM
10. \(\ce{NiCl2}\) 0.4 μM
11. \(\ce{Na2MoO4}\) 0.4 μM
12. \(\ce{H3BO3}\) 0.4 μM
13. \(\ce{Na2SeO3}\) 0.4 μM

ただし、最後の亜セレン酸ナトリウムは「毒物」に指定されているので取り扱いは難しく、当研究室では使用していない。しかし、セレンは必須微量元素なので、特殊細胞培養用やサルモネラ菌用の培地、ペットフード、ヒト用サプリメントなどには少し含まれているようである。このようなサプリを培地に少し入れて試してみるのも興味深い。実際、昔は某社の栄養ドリンク(下記のようなさまざまなビタミンが含まれている)を少量入れて発現量を増やしたこともあった。

さらなるビタミンの追加

最少培地に何を入れるか、あれこれと試す実験はたいへん面白いものである。下のようなビタミン類を入れても良い。これは重水培養のように大腸菌にとって負担が極めて重い場合に絶大な効果を発揮する。重水培養の場合は、ビタミン試薬をもちろん重水で溶かしておく。残りはエッペンドルフチューブに分注し、冷凍しておくと長持ちしやすいだろう。

14. 10 × ビタミン原液 (50 mL の水(あるいは重水)で溶かし、好みに応じてフィルターにて滅菌処理。その内 0.5 mL を培地 1 L に入れる)

葉酸(ビタミン M,B) 10 mg
塩化コリン(ビタミン B) 10 mg
ニコチンアミド(ビタミン B) 10 mg
D-パントテン酸(ビタミン B) 10 mg
ピリドキサール(ビタミン B6) 10 mg
リボフラビン(ビタミン B2,G,ラクトフラビン) 1 mg
イノシトール 20 mg

出費を惜しまなければ、もっと手を抜くことも可能

バクテリアやクロレラなどの藻類の加水分解産物を水で薄めるだけででき上がる即席標識培地も販売されている。この中にはミネラルも揃って入っており、ビタミンも標識された状態で存在するので、最少培地ではなく、いわば全標識された富栄養培地と言える(Silantes 社の OD2 Rich growth media など)。そのため、大腸菌の成長と蛋白質の発現にはたいへん優れている。ただ一つ注意したいことは、緩衝効果があるかどうかである。この点は各自で購入した即席培地で培養後の pH が7を下回っていないかどうかをチェックしておきたい。また、普通の M9 最少培地において発現誘導をかける頃に、この即席濃縮培地を少量だけ添加するのもたいへん効果的かつ経済的である。なお、このような藻類の加水分解産物の製品において、非標識のお試し版が安価で販売あるいは無料で試供されている場合があるので、是非、お取り扱いの業者に相談して欲しい。この非標識版で最適化しておいてから、実際の標識版に進めば、経済的に節約できるだろう。

安定同位体以外の窒素源や炭素源の混入がそれほど致命的かどうか

これはその試料を使っての NMR の個々の測定法によって異なる。例えば、ほとんどの測定を占める二次元 \(\ce{^{1}H}\)–\(\ce{^{15}N}\) HSQCでは、ほとんど問題ないと言える。仮に10%もの大量の \(\ce{^{14}N}\) 窒素源が混入してしまったとしよう。その場合、感度が90%に落ちるだけであるので、原理上は1時間の測定時間を14分伸ばすと克服できる(感度を \(x\) 倍に上げるには、測定時間を \(x^{2}\) 倍に延ばさないといけない)。どのような場合に問題になるかを挙げると、例えば、三次元 HCCH-TOCSY などのように隣り合った \(\ce{^{13}C}\) スピンに沿って磁化を移動させるような場合である。仮に個々の炭素核にお互い全く独立に(グルコースの代謝によると実際にはそうではないのであるが)10%の \(\ce{^{12}C}\) が混入したとする。すると、3つの \(\ce{^{13}C}\) スピンが連続して存在する場合の確率は \(0.93 = 73\%\)となるので、感度が7割程度に落ちてしまうことがある。これを克服するには丸一日の測定を二日近くに増やさないといけない。

最少培地への菌体の適応(adaptation)

Over-night の前培養(100 mL)の間に、大腸菌が最少培地に順応すると思われる。特に、重水99.9%培養の場合は、重水の比率を20,40,60,80%と順々に上げて順応させるとよいかもしれない。しかし、BL21(DE3) を使った経験では、このような適応のための処理が無くても、前培養において十分な時間が経った翌朝には問題なく育っていた。また、最少培地で作った寒天プレートや重水の LB 培地寒天プレートなども適応には効果がある。特に後者は、その後の LB 重水培地 3 mL とともに使用することで、高い適応効果が見られた。

このような適応の問題以外に、LB 培地 3 mL で育てた菌体を重水の前培養培地 100 mL にそのまま移すと、それらの大腸菌が持ち込んだ軽水素が contamination となるのではないかという心配の声もある。特に、飽和転移法のようにほんの少しの軽水素の持ち込みが実験結果の質を著しく落としてしまうような場合には気を付けなければいけない。このような場合、LB 培地で育てた菌を遠心し、菌体だけを重水の M9 培地 10 mL ほどに植菌する。これを適応も兼ねて育てた後、これも遠心して菌体だけを 100 mL の M9 重水培地に植菌する。これにより、LB 培地由来の \(\ce{^{12}C}\),\(\ce{^{1}H}\) などの持ち込みをかなり減らすことができ、飽和転移法実験にも利用できる重水素化率の試料を調製することができる。

培養時の空気

最少培地での培養に限らず、培養には大量の酸素が必要であるので、水蒸気の混入を避けたい重水培養の場合を除いて、振盪処理だけよりかは、直接空気を送り込む方法が良いだろう。そのような場合、ファーメンターがあるとたいへん便利なのであるが、無い場合でもペットショップなどで販売されている熱帯魚飼育用のポンプシステムが代用できる。しかし、この通称「ブクブク」は培地の蒸発を予想外に促進させる。一度、「空気は大量に越したことはない」と思い、ある学生が実行してみたところ、1 L の培地の入っていたフラスコが翌朝には空になっていたことがあった。

大腸菌の成長が途中で止まる場合

慣れないうちは、培養の途中で大腸菌が育たなくなる(\(\mathrm{OD_{600nm}}\) が上がらない)ことがあるかもしれない。たいていは M9 培地に入れるべき試薬の調合ミスが原因である。例えば \(\ce{MgSO4}\) が実験室にないからといって \(\ce{MgCl2}\) で代用すると、培地に硫黄源がなく大腸菌の成長は途中で止まる。その他に pH の減少もあり得る。M9 培地はリン酸緩衝液でもあるので、pH の低下はかなり免れるはずであるが完璧ではない。\(\ce{Na2HPO4}\) の量を少し多めにして、スタート時の pH を高めにしておくのも一案である(塩と buffer の合計濃度が 200 mM ぐらいでも可能であろう)。当研究室でまだ経験したことがないがファージが繁殖して大腸菌が全滅してしまうこともあるそうである。溶菌すると、この 600 nm 波長の可視光を散乱する大腸菌個体がなくなるので、\(\mathrm{OD_{600nm}}\) はむしろ下がっていく。当研究室を1年間ほど悩ませた事件は、培地がきれいなピンクに変色してしまうことである。ついに原因は解明できなかったが、流しなどの水たまりに赤い色が付くのと同じく、酵母の一種が培養中に繁殖したためではないかと思われる。オートクレーブでは防ぐことができず、集菌しようとして翌朝に来校した学生さんを驚かせた。

特異的標識 specific labeling

上記のプロトコールは均一 uniform 標識を想定して書いた。しかし、あるアミノ酸だけを \(\ce{^{13}C}\),\(\ce{^{15}N}\),\(\ce{^{2}H}\),\(\ce{^{1}H}\) などで標識、あるいは非標識したいという場合もある。その場合は、例えば立体特異的に標識されたアミノ酸そのもの(例えば SAIL アミノ酸 (3))や、その前駆体を培地に入れる。多くの場合、IPTG などで誘導をかける1時間ほど前に培地に添加する。これが成功するかどうかは、加えたアミノ酸が大腸菌の代謝過程で別のアミノ酸に流れてしまう(スクランブル)程度、あるいはアミド基などが置換されてしまう程度に依存する。Arg,Lys,His,Met などは比較的スクランブルしにくい。また、(Phe, Tyr), (Ile, Leu, Val) のように、数個の似たアミノ酸どうしの中だけでスクランブルが閉じる場合もある。最近は Ile,Leu,Val,Met のメチル基だけを \(\ce{^{1}H}\)/\(\ce{^{13}C}\) に、その他を \(\ce{^{2}H}\)/\(\ce{^{12}C}\) に標識し、超高分子量でもメチル基を観測する方法が流行っている (4)。Ile の前駆体として特異的標識された2-オキソ酪酸を、Leu,Val の前駆体として2-オキソイソ吉草酸を使うが、どちらも他のアミノ酸へのスクランブルは見られず、きれいな 2D \(\ce{^{1}H}\)–\(\ce{^{13}C}\) HMQC スペクトルを見ることができる。

文献

  1. Takahashi, H. et al., Nat. Struct. Biol., 7, 220–23 (2000)
  2. Studier, F. et al., Methods Mol. Biol., 1091, 17–32 (2014)
  3. Kainosho, M. et al., Nature, 440, 52–57 (2006)
  4. Velyvis, A. et al., J. Am. Chem. Soc., 135, 9259–62 (2013)
  5. 池上貴久, タンパク質実験ノート上(岡田雅人・宮崎香)202–208, 羊土社出版 (2011)
  6. ウェブサイト:「毎日エネマル」大腸菌培養の最少培地 M9 その1〜4
    http://wurstchirp.blogspot.com/2016/08/m9.html

謝辞

当プロトコールは、大阪大学蛋白質研究所の旧京極研究室の上垣浩一博士、清水真人博士、赤木謙一博士をはじめ、多くの方の趣味的努力により開発されてきた事項が含まれています。さらに、査読者との活発な discussion により飛躍的に更新されました。ここにその成果を発表できたことに厚くお礼を申し上げます。

変更履歴

2021年1月22日 変更

  • 工夫とコツに「大腸菌の成長が途中で止まる場合」および「特異的標識 specific labeling」の項目を新たに追記。
  • 「目的プラスミドの大腸菌への形質転換」「工夫とコツ:重水最少培地における(ビタミン&拡散溶液)の滅菌処理」において補足説明を追記。
  • その他、全体に渡って、語彙・文章を適宜修正・追記。

変更前の PDF

概要

核磁気共鳴(NMR)による解析を目的とした蛋白質の調製には、おもに大腸菌による発現系が利用される。それは、NMR の観測に必要な \(\ce{^{15}N}\),\(\ce{^{13}C}\),\(\ce{^{2}H}\) などの安定同位体を蛋白質に導入するのが容易だからである。この標識(ラベル)用の培地は最少培地と呼ばれ、[\(\ce{^{15}N}\)]-塩化アンモニウムや \(\ce{[^{13}C]}\)-グルコース以外には窒素源や炭素源を原則として含んでいない。そのため、大腸菌はこれらの安定同位体試薬を栄養源として取り込みながら成長、分裂し、蛋白質を合成する。その結果、発現された蛋白質は、これらの安定同位体で一様に標識されることになる。本プロトコールでは、出来るだけ発現効率の高い最少培地の作り方や培養時の注意点などについて述べる。特に、高価な標識体の溶液は、経済的な観点より、植菌直前に培地に添加することが重要である。培養に要する日数は、培地に入れる標識試薬の種類によって大きく異なるが、一般的に普通の LB などの富栄養培地の場合に比べて2~3倍程度は長くかかる。

装置・器具・試薬

  • 恒温振盪培養器 3 L 程度のフラスコが振盪できるもの(各社)
  • 遠心機(各社)
  • 濁度計(各社)分光光度計でも可
  • オートクレーブ(各社)
  • バッフルフラスコ、あるいは、坂口フラスコ(リンゴ形)2~3 L 1個
  • 大腸菌コンピテントセル(各社)
  • LB 寒天培地 アンピシリン、カナマイシンなどベクターに対応する抗生剤を含む1枚
  • LB 培地 3 mL
  • 最少培地(下記の成分を含む)1 L 分
    1. 10 × 塩溶液(100 mL に溶かしてオートクレーブ処理)

      \(\ce{Na2HPO4}\) 7.0 g(49.31 mM × 10)
      \(\ce{KH2PO4}\) 3.0 g(22.04 mM × 10)

      水和物試薬を使うときはモル数をもとに計算しなおすこと。
      この緩衝液の調製で自動的に pH 7.15 程度となる。

      \(\ce{NaCl}\) 0.5 g(8.56 mM × 10)

      \(\ce{Na+}\) と \(\ce{K+}\) の合計濃度を計算すると 130 mM の生理的塩濃度となる。

    2. ビタミン&核酸溶液(約 880 mL に溶かしてオートクレーブ処理)

      チミジン (T) 20 mg
      アデノシン (A) 20 mg
      グアノシン (G) 20 mg
      シチジン (C) 20 mg

      以上はリン酸基のついていないヌクレオシドでよい。

      チアミン 20 mg ビタミン B1
      ビオチン 20 mg ビタミン H

      水に溶けにくく浮き易いものもあるが、オートクレーブすると溶ける。

      10 mM \(\ce{FeCl3}\) 5.0 mL 1~10 mLの範囲で可能
      1 M \(\ce{MgSO4}\) 2.0 mL \(\ce{MgCl2}\) ではない。唯一の硫黄源
      50 mM \(\ce{MnCl2}\) 1.0 mL  
    3. 安定同位体標識体(20 mL に溶かしてフィルター処理)

      \(\ce{[^{15}N]-NH4Cl}\) 2.0 g  
      \(\ce{[^{13}C]}\)-グルコース 2.0~4.0 g \(\ce{^{15}N}\)/\(\ce{^{13}C}\) 標識の場合
      \(\ce{[^{2}H]}\)-グルコース 2.0~4.0 g \(\ce{^{2}H}\)/\(\ce{^{15}N}\) 標識の場合
      \(\ce{[^{2}H,^{13}C]}\)-グルコース 2.0~4.0 g \(\ce{^{2}H}\)/\(\ce{^{15}N}\)/\(\ce{^{13}C}\) 標識の場合
      重水 \(\ce{D2O}\) 50~99.9% \(\ce{^{2}H}\) 標識の場合

      上記のいずれの標識パターンにおいても \(\ce{^{15}N}\) では標識するものとする。

    4. 50 mM \(\ce{CaCl2}\) 2.0 mL
    5. グリセロール 1/1000 (v/v) \(\ce{^{15}N}\) のみの一重標識の場合
      \(\ce{[2H]}\)-グリセロール 1/1000 (v/v) \(\ce{^{2}H}\)/\(\ce{^{15}N}\) 標識の場合
    6. 抗生物質 50~100 μg/mL それぞれのベクターに対応する
    7. \(\ce{ZnCl2}\) 20 μM Zinc-finger 蛋白質の場合

実験手順

以下は、蛋白質を実際に安定同位体 \(\ce{^{15}N}\),\(\ce{^{13}C}\),\(\ce{^{2}H}\) などで標識することを前提に書かれている。安定同位体試薬の中でも特に \(\ce{[^{2}H (, ^{13}C)]}\)-グルコースや重水(\(\ce{D2O}\))などの重水素を含む試薬は、依然として高価である。そのため、一度も最少培地での発現を試したことのない試料の場合は、事前に非標識培地での「シミュレーション発現」を一度は試してみることをお勧めする。その場合、\(\ce{[^{2}H (, ^{13}C)]}\)-グルコースの代わりに、普通(cold と呼ぶ)のグルコース(葡萄糖)を使用しても、培地の溶媒が軽水(\(\ce{^{1}H2O}\))の場合は、大腸菌の成長や蛋白質の発現の程度はほとんど同じになるはずだが、軽水の代わりに重水を利用した場合には格段に低下する。そのため、重水による培養だけは、いわば一発勝負のようなところがある。なお、\(\ce{[^{15}N]}\)-塩化アンモニウムに至っては、かなり価格が下がってきたので、むしろその後の精製に利用するカラムのレジンや融合蛋白質の切断用酵素の方がより高価になってきた。そのため、\(\ce{^{15}N}\) だけの標識のために非標識の試料を何度も発現しては精製し培養法を最適化するという方法は、必ずしも得策とは言えない。蛋白質が \(\ce{^{15}N}\) で標識されていれば、50 μM,300 μL という量でも二次元 \(\ce{^{1}H}\)–\(\ce{^{15}N}\) HSQC をとることができ、その結果から、その蛋白質の NMR 解析が可能かどうかを判定できるので、\(\ce{^{15}N}\) のみの標識は「シミュレーション発現」ですでに取り入れても良いのではないかと考えている。また、上記の安定同位体試薬は注文毎に輸入される場合があるため、時期によって価格が大きく変動したり、一度に購入する量によっても単価が数倍の幅で上下する。そのため、初めて蛋白質の標識化を試みる研究室は、試薬の購入においても注意が必要である。

第1日

  1. 目的プラスミドの大腸菌への形質転換
  2. 培地の作製
  3. 前培養(pre-culture)

第2日

  1. 本培養(main-culture)
  2. 発現誘導
  3. 集菌
  4. 精製

実験の詳細

第1日

1. 目的プラスミドの大腸菌への形質転換

M9 最少培地 100 mL への植菌(前培養 pre-culture)までは、LB などの富栄養培地を利用した「大腸菌を用いた組換え蛋白質の発現-スタンダードプロトコール-(萩原義久著)」と全く同様の手順であるので、これら共通の箇所については簡単に記述する。

大腸菌 BL21(DE3) は、最少培地での培養にも比較的強く、また、pET ベクターなどにコードされた目的蛋白質の発現用に大量培養ではよく用いられる。以降は、この T7 プロモータ系の発現系を想定して記述する。さらに目的に応じて、例えば、毒性のある蛋白質などで発現誘導を厳密に制御したい場合は pLysS 型(プロメガ社)を、真核生物由来のコドン使用頻度に適応させたい場合は Rosetta™ (DE3)(メルク社(Novagen))を、ジスルフィド結合を効率良くかけたい場合には、Origami™ (DE3)(メルク社(Novagen))などを選択すると良い。その他にも、mRNA を安定化させる BL21 Star™ (DE3)(ThermoFisher社)、低温培養で高活性のシャペロンを発現させる ArcticExpress(Agilent社)などもある。

目的のプラスミドで大腸菌を形質転換する方法は、エレクトロポレーション法でもヒートショックを伴った塩化カルシウム(\(\ce{CaCl2}\))法でも良い。形質転換した大腸菌は LB プレートに蒔き、コロニーが成長してくるのを待つ。最少培地による培養前に、この操作を行う方がよい。グリセロールストックを前培養の最少培地などに直接植菌して開始することも可能ではあるが、なるべく避けた方がよい。それは、最少培地は LB 培地などとは異なり栄養分が少ないために、大腸菌の成長がたいへん遅く、そのためグリセロールストックから長時間をかけて菌を起こすなどの処理を行うと、菌が全滅してしまったり目的外の菌が混入して成長してしまい、予想外に蛋白質の発現量が少なくなるといった状況になることが多いためである。

真核生物由来の蛋白質においてそもそも発現量が少ない場合、コドン使用頻度の問題が原因かもしれない。NMR解析用に特に重水素化蛋白質を調製する場合には、この発現量が成果に大きく影響しかねない。レアコドンの tRNA を補充するように設計されたコンピテントセルを使うことで克服できる場合もあるが、思い切って大腸菌のコドン使用頻度に最適化した配列に DNA を合成しなおす方が早道の場合も多い。あるいは、DNA の 5’ 側に転写がスムーズに進むようなタグをつけるとよい。筆者の経験では、コドン使用頻度の最適化により、今度は発現しすぎて蛋白質が封入体に移ってしまうことが多いようである。そして、その場合には ArcticExpress を使うことにしている。レアコドンは、リボゾームから出てきた新生ポリペプチド鎖が N 末端側から正しくフォールドするためのタイミングを与えているのかもしれず、真核生物のコドン使用頻度をそのまま反映するように大腸菌のコドンを選ぶとよいのかもしれない。

2. 培地の作製

上記の「試薬」の項に1から7までの番号が振られているが、これらを別々に作成しなければならない。

  1. 10 × 塩溶液(オートクレーブ処理)
    M9 培地とは本来はこの塩溶液のことを指す。ナトリウムとカリウムの合計が大腸菌に対する浸透圧を考慮して生理的食塩水濃度になるように調合される。さらに、第一リン酸と第二リン酸のモル比から pH が7より若干高めに設定される。そのため、水和物試薬から秤量する場合には、記載された重さではなく、モル濃度で合わせること。例えば、\(\ce{Na2HPO4}\) であれば 7 g を秤量するところであるが、その水和物 \(\ce{Na2HPO4 \cdot 12H2O}\) の場合には 18 g を秤量することになる。大腸菌は成長とともに乳酸などの物質を分泌するため、このような緩衝剤の入っていない LB 培地などでは、培養が進むとともに培地の pH が下がってしまい、そのため菌の成長が途中で止まってしまう。最近の酸性雨の影響のためか、pH を調整せずに作成した LB 培地の pH が5付近だったこともある。それに対してこの M9 培地ではリン酸緩衝液が入っているため、pH の低下を防ぐことが出来る。もし、窒素源や炭素源、その他のミネラル、ビタミン類も豊富に入っていれば(特に \(\ce{^{15}N}\) のみの標識の場合など)、LB 培地と遜色ない発現量が得られることもある。大量の塩は少し溶けにくいが、オートクレーブすると溶ける。重水培養の場合は、これらを重水でよく溶かし、原則としてフィルター処理する(「工夫とコツ」参照)。
  2. ビタミン&核酸溶液(オートクレーブ処理)
    最少培地とは、\(\ce{[^{15}N]}\)-塩化アンモニウムや \(\ce{[^{13}C]}\)-グルコース以外に窒素源や炭素源が無いような培地のことである。そのため、大腸菌はこの安定同位体試薬を吸収、代謝して生きなければならず、自らの細胞成分はもちろんのこと、合成した蛋白質など全てが安定同位体で均一標識されることになる。

    試薬として入れる核酸やビタミン成分などは、もちろん安定同位体でない \(\ce{^{12}C}\) 炭素源、\(\ce{^{14}N}\) 窒素源、\(\ce{^{1}H}\) 水素源の混入の原因となる。しかし、少しの混入でも大腸菌がある程度は育ち蛋白質を合成してくれる方を選ぶのが良いと思われる。\(\ce{^{1}H}\) の混入については、特に超高分子量の transfer cross saturation 実験に利用するのでなければ問題とはならない。それぞれ 20 mg/(L 培地)という指標であるが、適当にミニスパチュラ一杯程度の量でよく、厳密に秤量する必要はない。

    チアミンやビオチンなどのビタミン類がすぐに溶けない場合がある。オートクレーブすれば溶けるのであまり気にしなくてもよいが、容器から容器へと溶液を移す際、容器の内壁に付着したまま残ることがあるので、できるだけ本(前)培養で実際に使用するフラスコに直接これらの試薬を入れるようにしたい。なお、バッフルの付いたできるだけ大きなフラスコを選ぶ。最少培地ではエアレーションが少なめであると失敗することが多いためである。重水培養の場合は、試薬類を重水で溶かし、原則としてフィルター処理する(「工夫とコツ」参照)。

  3. 安定同位体標識体(フィルター処理)
    \(\ce{^{15}N}\) のみの一重標識(single-label)の場合は、\(\ce{[^{13}C]}\)-グルコースではなく、普通の cold グルコースを 4 g/L 入れる。さらに、グリセロールも追加すると、充分量の炭素源となる。グルコースをあまり多量に入れ過ぎるとかえって発現量が落ちる場合もある。特に IPTG ではなく、アラビノースで発現を誘導する araBAD プロモータなどを含めたベクターを利用している場合には注意が必要である。グルコースの添加は発現をほぼ完全にブロックしてしまうが、これは catabolite repression と呼ばれる現象による。その他の各種ビタミン、ミネラル類の追加、さらに pH を調整してくれる緩衝効果のため、LB 培地の場合とほとんど同程度の量の蛋白質が得られる。

    \(\ce{[^{13}C(/^{2}H)]}\)-グルコースの量は、一般的には多い方が良い。しかし、経費がそれだけ上がるので、各自の財布と相談する必要がある。まれに、このグルコースの量が少ない方が、ゆっくりと翻訳され、結果として目的の蛋白質がうまくfoldするような例も見られる。

    極めて100%に近い重水素化を施したい場合には、必ず \(\ce{[^{13}C(/^{2}H)]}\)-グルコースを入れないといけない。逆に、50%程度の重水素化率に設定したい場合は、(\(\ce{[^{13}C]}\)-)グルコースを50% \(\ce{D2O}\)/50% \(\ce{H2O}\) の培地に入れる。しかし、側鎖の全ての炭素に一様に50%の比率で \(\ce{^{2}H}\) が付加する訳ではない。一般的にα位置の水素は培地の溶媒の重水素化率を反映しやすいのに対して、その他の部位は、むしろ添加したグルコースの水素原子をそのまま保持しやすい。\(\ce{^{13}C}\)/\(\ce{^{1}H}\) の化学シフト値は、1~2結合を通して近くにある \(\ce{^{2}H}\) の数に応じてシフトする(同位体シフト)。そのため、メチル基には \(\ce{^{13}C^{1}H3}\),\(\ce{^{13}CD^{1}H2}\),\(\ce{^{13}CD2^{1}H}\) などのアイソトポマーが存在し、二次元 \(\ce{^{13}C}\)–\(\ce{^{1}H}\) 相関スペクトルでは3つのピークがずれて見えてしまうという問題が生じる。

  4. その他のカルシウム、(\(\ce{[^{2}H]}\)-)グリセロール(\(\ce{^{13}C}\) で標識しない場合)、亜鉛(zinc-finger 蛋白質の場合)を準備する。また、「工夫とコツ」の覧に記載されているような、各種ビタミン、ミネラルも作成しておくと、極めて効率の高い発現が得られる。
  5. 以上を間違えないように混ぜ合わせる。しかし、ここでの最大の注意点は、決してオートクレーブ後の熱い状態で混ぜないことである。これらを別々に作成する理由は、熱い状態では糖とミネラルなどが結合して一種の毒素が出来てしまうためである。できれば、前日に作成して、翌日に混ぜ合わせるようにしたい。しかし、どうしても急がないといけない場合は、(水相)振盪培養器に入れて振ると良い。静置して冷ますよりも何倍も早く冷える。

リン酸カルシウム類は水に溶けにくいので、(10 × 塩溶液)の中に直接、カルシウム溶液を入れない。(ビタミン&核酸溶液)の方にカルシウム溶液を入れるが、それでも混ぜた時にリン酸カルシウムなどの白い沈殿が見えることがある。これらは数回振って拡散させる。振らずにミネラル類を追加していくと、局所的に金属濃度の高い箇所が生じ、予期せぬ沈殿を生じてしまうかもしれない。

前培養(pre-culture)100 mL と本培養(main-culture)900 mL を別々に作成しても良いし、一旦いっしょに混合してから 1:9 に分けてもよい。後者の方が、もし、pre-culture で菌が生えてこなかった場合には、main-culture の培地についても何かが間違っているかもしれないと予想できるので良いかもしれない。なお、いずれの場合でも高価な標識体溶液は最後に混ぜること(本培養の培地に標識体溶液を加えるのは翌朝の植菌直前に!)。同位体試薬を入れていない状態の培地では、雑菌や酵母も増殖しにくい。前培養の結果、失敗作だと分かった本培養の培地から、すでに混ぜてしまった標識体だけを精製分離することはよく受ける相談であるが、無理と思って諦める。なお、重水は蒸留操作により回収することも可能であるが、純度が7割程度に落ちてしまう。

3. 前培養

前培養の最少培地(100 mL)を30℃に温めておく。

コロニーが充分に成長してきたらそのうちの1個(あるいは10個程度でもよい)を拾い、LB 培地 3 mL に植菌して数時間37℃で振盪培養する。LB 培地に充分に菌が生えている状態(\(\mathrm{OD_{600nm}} = 0.5\) 程度)が、晩に帰宅する一時間前ぐらいになるように計画すると良い。

この培地を 1 mL ほどエッペンドルフチューブにとり、軽く遠心分離(5,000 rpm,5 min)してから上清を捨てる(菌が遠心操作により弱り過ぎないように注意)。沈殿している菌体に前培養(pre-culture)の最少培地(あるいは、生理的食塩水)を 1 mL ほど加えて撹拌し、その前培養のための M9 最少培地(100 mL)に植菌する。ただし、遠心分離を行うと冷えてしまい、大腸菌の成長が一時的に停止することがある。そのため、富栄養培地の混入がほとんど影響しないような実験(例えば、二次元 \(\ce{^{1}H}\)–\(\ce{^{15}N}\) HSQC など)のためだけであれば、3 mL の富栄養培地から 0.5~1.0 mL ほどを抜き取り、遠心せずにそのまま前培養の最少培地 100 mL に植菌するのもよい。それでも最終的な混入は 1/1,000 程度である。

Over-night で翌朝まで27–30℃程度で振盪培養する。37℃で培養すると、12時間後には菌が成長し過ぎている場合が多い。また、発現蛋白質が毒性を持つような場合、この前培養時に(IPTG 無しでも)少し漏れて発現してしまった蛋白質が full-growth の菌体を弱らせてしまうこともある。もっとも良いタイミングは、翌朝の \(\mathrm{OD_{600nm}}\) が0.8付近になることであるが、そのための培養温度と振盪速度は個々の実験環境によって異なるので、ある程度調整すると良い。

第2日

4. 本培養

朝一番で前培養 100 mL の \(\mathrm{OD_{600nm}}\) を測定する。あるいは、目視により充分に白く濁っていれば前培養は成功であり、本培養も同様に成功する確率が高い。一方、前培養でそれほど育っていない場合は、一度37℃に温度を上昇させ、3~5時間ほどさらに培養を続けてみる。それでもあまり菌が成長して来ない場合は、前培養の培地の作成が間違っている可能性が高い。そして、本培養も同様に間違っているかもしれないので、本培養の培地に高価な標識体溶液を入れずに、すぐに中止する。

このように前培養の成否を見届けてから本培養に進むようにすると、標識体の大半を無駄にしないで済む。しかし、100%近くの重水培養の場合は菌体の成長してくる速度が2~3倍も遅い場合があるので、前培養でそれほど生えていなくても希望を捨てずに37℃に温度を上げて培養を続ける方がよいかもしれない。一方で、本培養培地の pH を pH 試験紙などで確認してみよう。また、チアミンとビオチンを念のため追加で入れておくと良い。

本培養の培地 900 mL を37℃に温める。実際に培養する培養器で振盪すると10分程度で暖まる。このように、植菌を行う場合はいずれにおいても、冷えた環境の培地に移さないようにすることが重要である。充分に温まったら、前培養の培地 100 mL を本培養の最少培地 900 mL に付け足す。

そのまま37℃で振盪培養する。ほとんどの蛋白質の発現では大量の酸素を必要とする。そして、最少培地での培養では、この酸素量が発現量などに顕著に効いて来ることが多い。ただし、あまり酸素(空気)を大量に入れ過ぎて、蛋白質が大量に高速に翻訳されてしまうと、封入体になってしまうこともあるので、培養条件は個々の実験で調整して欲しい。この充分な空気量が重要であるため、フラスコによる振盪培養よりかは、ジャーファーメンタを用いる方がかなり効率が高い(ただし、水蒸気からの \(\ce{^{1}H}\) の混入が多くなる)。

重水培養の場合は振盪をあまり激しくできない。それは、空気とともに水蒸気が培地に混入し、培地の中の重水の割合が培養時間とともに下がってしまうためである。しかも、重水培養は発現誘導後も含めて時に1~2日に及ぶこともあるため、水蒸気から混入する軽水はかなりの量となる。そのため、ファーメンターで空気を送り込む場合は、必ず大量の乾燥剤を通したドライエアを使う(「工夫とコツ」参照)。

5. 発現誘導

個々の実験によって異なるが、およそ、\(\mathrm{OD_{600nm}}\) が0.4~0.5付近で IPTG などの試薬により発現誘導を開始する場合が多い。朝の10時頃に前培養から本培養に植菌したとすると、正午から夕方5時ぐらいの間に発現誘導をかけるタイミングになる。しかし、\(\ce{[^{13}C]}\)-グルコースの量が少ない培地や重水培地などでは、菌の成長が遅く、夜になってからやっと発現誘導をかけ、翌朝に集菌することもある。

6. 集菌

培地の組成によって最終的な菌体の濁度は異なる。およその目安として、\(\ce{^{15}N}\) 標識のみの培養では \(\mathrm{OD_{600nm}}\) が1.2~1.5程度、\(\ce{^{15}N}\)/\(\ce{^{13}C}\) 標識では0.7~1.0程度(\(\ce{[^{13}C]}\)-グルコースを何 g/L 入れるかによって大きく異なる)、\(\ce{^{2}H}\) 標識では0.7~0.8程度になることが多い。

7. 精製

その後の精製法は、普通の非標識試料の場合と全く同じである。たとえ、重水素を標識として含んでいても、精製時は普通の軽水をもとにした buffer を使う。

重水で培養した直後は、アミド基の水素も \(\ce{^{2}H}\) で標識されている。しかし、このアミド基の水素は、\(\ce{^{1}H}\) に戻さないと NMR の各種測定法で何も観測されないことになってしまう。実は、アミド基の水素は溶媒の水素と化学交換を起こすので、精製時の溶媒の \(\ce{^{1}H}\) がアミド水素の位置に入ってくることが多い。それに対して、炭素に結合している側鎖領域のほとんどの水素は溶媒の水素とは通常の条件下では化学交換しない。ところが、大きな安定な蛋白質では、構造内部深くのコア領域には溶媒の水が接近しにくいため、何ヶ月待ってもいっこうに \(\ce{^{1}H}\) に置き換わらない場合が多い。これが、大きな蛋白質を NMR で解析する場合の一つの問題となっている。対策としては、pH を8程度に上げた状態で数日間放置したり、一度、塩酸グアニジンや尿素などで変性させてから(変性状態ではアミド水素が容易に入れ替わる)もう一度巻き戻しをさせるなどの操作が考えられる。しかし、このような手荒な処理にも耐えられるような蛋白質だけが NMR の観測にかかっているのが現状である。

工夫とコツ

最少培地に入れるべき品目を列挙したチェックシートの作成

蛋白質を安定同位体で標識するには、まずそれ専用の培地を失敗なく作成することが重要である。しかし、時に入れるべき品目を入れ忘れたり、あるいは量を一桁間違えたりすることがよく起こる。これを防ぐにはチェックシートを作成し、混ぜたものから順に印をつけるなどの工夫をした方が良い。

重水最少培地における(ビタミン&核酸溶液)の滅菌処理

重水培養の場合は、核酸やビタミン類を重水で溶かし、オートクレーブしないでフィルター処理する。オートクレーブでは水(重水に対して軽水と呼ぶ)が混入してしまうためである。しかし、フィルターで処理すると、溶けていない試薬類は全て濾し取られてしまうことに注意してほしい。滅菌処理になっていないという意見もあるが、当研究室ではフィルターをかけた後に再度少量の試薬を追加で入れている。なお、重水素核(\(\ce{^{2}H}\))は核磁気共鳴では観測可能な核種であり、実際に固体 NMR のみならず、溶液 NMR においてもメチル基の重水素核の磁気緩和実験などで観測の対象となっている。しかし、高分子量の蛋白質の特に側鎖の水素の位置を重水素で置換する方法の大きな目的は、\(\ce{^{13}C}\) 核や残りの \(\ce{^{1}H}\) 核(例えば、アミド \(\ce{^{1}H}\) 核)の横緩和時間を伸ばして感度を上げるためである(TROSY 法においては、アミド \(\ce{^{1}H}\) 核の縦緩和時間を伸ばして \(\ce{^{15}N}\) 核のダブレットピークが混ざらないようにする目的も含まれる)。したがって、\(\ce{^{2}H}\) 核が観測の対象になっていない場合が多い。そういう意味では、「重水素で標識する」という表現はあたかも標識された重水素核を観測対象とする印象を与え、正確な表現とは言えないかもしれない。

なお当研究室では、最近は重水培地に対してオートクレーブもフィルター処理もいずれも行わない。それは、きわめて重水素化率の高い試料を調製したいためである。NMR 測定において \(\ce{^{1}H}\)–\(\ce{^{15}N}\) HSQC-TROSY や HN(CO)CACB-TROSY などだけが目的であれば、\(\ce{^{1}H}\) の数パーセントの混入は大した害にはならない。しかし、超高分子を対象とした transfer cross saturation(TCS)実験で使う \(\ce{^{2}H}\) 化試料では、混在した \(\ce{^{1}H}\) がアーティファクトを生み出すと、相互作用部位を間違えて検出してしまうことになる (1)。滅菌操作をまったく行わない培地で培養を成功させるためには、さまざまな工夫が必要であるが、もっとも重要なことは、次のより大きなスケールの培地には大量に植菌することである。長い時間培養すると、培地中の抗生物質が分解されて目的の菌体以外の雑菌が生えてくる。しかし、常に目的の菌が培地内で圧倒的多数を占めているように工夫すると、そのような雑菌が成長してくる前に発現や集菌を終わらせることができる。

10 × 塩溶液の作成において、筆者はまだ重水素化したリン酸試薬を使ったことはない。しかし、\(\ce{^{1}H}\) の混入を減らすために、できるだけ水和物でない試薬を使って欲しい。

最少培地における(ビタミン & 核酸溶液)のミネラルの量

鉄とマグネシウムの量は、以前の執筆 (1) より少し多めに設定している。その方が良い結果が得られる。その理由の一つとして、これらの試薬に含まれる微量のその他の金属(contamination している trace metal)が意外にも必要なためである。そのため、あまり純粋すぎる高級試薬よりも、むしろ低純度の試薬の方が良い。\(\ce{FeCl3}\) の量についても10倍の量幅で記載した。当研究室ではいつも最大量を入れており、そのため M9 培地が赤茶色に見えるが、菌は非常によく育つ。それを超えると鉄の毒性により収率が下がる (2)。

培地の水(重水培養を除く)

培地を溶かす水は、以前はイオン交換水を使用していた。しかし、最少培地では微量のミネラルが多種不足する場合が多いことを考慮し、試しに古い建物(錆びた水道管)の水道水を使ってみたことがある。すると、全く発現しなかった蛋白質が再現性よく大量に発現した。以降、当研究室では水道水をそのまま使っている。

さらなるミネラルの追加

M9最少培地にさらに何を加えれば効率が上がるかを学生さんたちといろいろ試したことがある。しかし、バナジウムは一部の清涼飲料水に入っているように心臓には良いが、大腸菌には毒素となるのか、せっかくの大腸菌が全滅してしまったこともあった。さらに下記のような追加試薬を入れると良いかもしれない。

7. \(\ce{ZnCl2}\) 20 μM(zinc-finger 蛋白質の場合)
  2.0 μM(zinc-finger 蛋白質でない場合)
8. \(\ce{CoCl2}\) 0.4 μM
9. \(\ce{CuCl2}\) 0.4 μM
10. \(\ce{NiCl2}\) 0.4 μM
11. \(\ce{Na2MoO4}\) 0.4 μM
12. \(\ce{H3BO3}\) 0.4 μM
13. \(\ce{Na2SeO3}\) 0.4 μM

ただし、最後の亜セレン酸ナトリウムは「毒物」に指定されているので取り扱いは難しく、当研究室では使用していない。しかし、セレンは必須微量元素なので、特殊細胞培養用やサルモネラ菌用の培地、ペットフード、ヒト用サプリメントなどには少し含まれているようである。このようなサプリを培地に少し入れて試してみるのも興味深い。実際、昔は某社の栄養ドリンク(下記のようなさまざまなビタミンが含まれている)を少量入れて発現量を増やしたこともあった。

さらなるビタミンの追加

最少培地に何を入れるか、あれこれと試す実験はたいへん面白いものである。下のようなビタミン類を入れても良い。これは重水培養のように大腸菌にとって負担が極めて重い場合に絶大な効果を発揮する。重水培養の場合は、ビタミン試薬をもちろん重水で溶かしておく。残りはエッペンドルフチューブに分注し、冷凍しておくと長持ちしやすいだろう。

14. 10 × ビタミン原液 (50 mL の水(あるいは重水)で溶かし、好みに応じてフィルターにて滅菌処理。その内 0.5 mL を培地 1 L に入れる)

葉酸(ビタミン M,B) 10 mg
塩化コリン(ビタミン B) 10 mg
ニコチンアミド(ビタミン B) 10 mg
D-パントテン酸(ビタミン B) 10 mg
ピリドキサール(ビタミン B6) 10 mg
リボフラビン(ビタミン B2,G,ラクトフラビン) 1 mg
イノシトール 20 mg

出費を惜しまなければ、もっと手を抜くことも可能

バクテリアやクロレラなどの藻類の加水分解産物を水で薄めるだけででき上がる即席標識培地も販売されている。この中にはミネラルも揃って入っており、ビタミンも標識された状態で存在するので、最少培地ではなく、いわば全標識された富栄養培地と言える(Silantes 社の OD2 Rich growth media など)。そのため、大腸菌の成長と蛋白質の発現にはたいへん優れている。ただ一つ注意したいことは、緩衝効果があるかどうかである。この点は各自で購入した即席培地で培養後の pH が7を下回っていないかどうかをチェックしておきたい。また、普通の M9 最少培地において発現誘導をかける頃に、この即席濃縮培地を少量だけ添加するのもたいへん効果的かつ経済的である。なお、このような藻類の加水分解産物の製品において、非標識のお試し版が安価で販売あるいは無料で試供されている場合があるので、是非、お取り扱いの業者に相談して欲しい。この非標識版で最適化しておいてから、実際の標識版に進めば、経済的に節約できるだろう。

安定同位体以外の窒素源や炭素源の混入がそれほど致命的かどうか

これはその試料を使っての NMR の個々の測定法によって異なる。例えば、ほとんどの測定を占める二次元 \(\ce{^{1}H}\)–\(\ce{^{15}N}\) HSQCでは、ほとんど問題ないと言える。仮に10%もの大量の \(\ce{^{14}N}\) 窒素源が混入してしまったとしよう。その場合、感度が90%に落ちるだけであるので、原理上は1時間の測定時間を14分伸ばすと克服できる(感度を \(x\) 倍に上げるには、測定時間を \(x^{2}\) 倍に延ばさないといけない)。どのような場合に問題になるかを挙げると、例えば、三次元 HCCH-TOCSY などのように隣り合った \(\ce{^{13}C}\) スピンに沿って磁化を移動させるような場合である。仮に個々の炭素核にお互い全く独立に(グルコースの代謝によると実際にはそうではないのであるが)10%の \(\ce{^{12}C}\) が混入したとする。すると、3つの \(\ce{^{13}C}\) スピンが連続して存在する場合の確率は \(0.93 = 73\%\)となるので、感度が7割程度に落ちてしまうことがある。これを克服するには丸一日の測定を二日近くに増やさないといけない。

最少培地への菌体の適応(adaptation)

Over-night の前培養(100 mL)の間に、大腸菌が最少培地に順応すると思われる。特に、重水99.9%培養の場合は、重水の比率を20,40,60,80%と順々に上げて順応させるとよいかもしれない。しかし、BL21(DE3) を使った経験では、このような適応のための処理が無くても、前培養において十分な時間が経った翌朝には問題なく育っていた。また、最少培地で作った寒天プレートや重水の LB 培地寒天プレートなども適応には効果がある。特に後者は、その後の LB 重水培地 3 mL とともに使用することで、高い適応効果が見られた。

このような適応の問題以外に、LB 培地 3 mL で育てた菌体を重水の前培養培地 100 mL にそのまま移すと、それらの大腸菌が持ち込んだ軽水素が contamination となるのではないかという心配の声もある。特に、飽和転移法のようにほんの少しの軽水素の持ち込みが実験結果の質を著しく落としてしまうような場合には気を付けなければいけない。このような場合、LB 培地で育てた菌を遠心し、菌体だけを重水の M9 培地 10 mL ほどに植菌する。これを適応も兼ねて育てた後、これも遠心して菌体だけを 100 mL の M9 重水培地に植菌する。これにより、LB 培地由来の \(\ce{^{12}C}\),\(\ce{^{1}H}\) などの持ち込みをかなり減らすことができ、飽和転移法実験にも利用できる重水素化率の試料を調製することができる。

培養時の空気

最少培地での培養に限らず、培養には大量の酸素が必要であるので、水蒸気の混入を避けたい重水培養の場合を除いて、振盪処理だけよりかは、直接空気を送り込む方法が良いだろう。そのような場合、ファーメンターがあるとたいへん便利なのであるが、無い場合でもペットショップなどで販売されている熱帯魚飼育用のポンプシステムが代用できる。しかし、この通称「ブクブク」は培地の蒸発を予想外に促進させる。一度、「空気は大量に越したことはない」と思い、ある学生が実行してみたところ、1 L の培地の入っていたフラスコが翌朝には空になっていたことがあった。

大腸菌の成長が途中で止まる場合

慣れないうちは、培養の途中で大腸菌が育たなくなる(\(\mathrm{OD_{600nm}}\) が上がらない)ことがあるかもしれない。たいていは M9 培地に入れるべき試薬の調合ミスが原因である。例えば \(\ce{MgSO4}\) が実験室にないからといって \(\ce{MgCl2}\) で代用すると、培地に硫黄源がなく大腸菌の成長は途中で止まる。その他に pH の減少もあり得る。M9 培地はリン酸緩衝液でもあるので、pH の低下はかなり免れるはずであるが完璧ではない。\(\ce{Na2HPO4}\) の量を少し多めにして、スタート時の pH を高めにしておくのも一案である(塩と buffer の合計濃度が 200 mM ぐらいでも可能であろう)。当研究室でまだ経験したことがないがファージが繁殖して大腸菌が全滅してしまうこともあるそうである。溶菌すると、この 600 nm 波長の可視光を散乱する大腸菌個体がなくなるので、\(\mathrm{OD_{600nm}}\) はむしろ下がっていく。当研究室を1年間ほど悩ませた事件は、培地がきれいなピンクに変色してしまうことである。ついに原因は解明できなかったが、流しなどの水たまりに赤い色が付くのと同じく、酵母の一種が培養中に繁殖したためではないかと思われる。オートクレーブでは防ぐことができず、集菌しようとして翌朝に来校した学生さんを驚かせた。

特異的標識 specific labeling

上記のプロトコールは均一 uniform 標識を想定して書いた。しかし、あるアミノ酸だけを \(\ce{^{13}C}\),\(\ce{^{15}N}\),\(\ce{^{2}H}\),\(\ce{^{1}H}\) などで標識、あるいは非標識したいという場合もある。その場合は、例えば立体特異的に標識されたアミノ酸そのもの(例えば SAIL アミノ酸 (3))や、その前駆体を培地に入れる。多くの場合、IPTG などで誘導をかける1時間ほど前に培地に添加する。これが成功するかどうかは、加えたアミノ酸が大腸菌の代謝過程で別のアミノ酸に流れてしまう(スクランブル)程度、あるいはアミド基などが置換されてしまう程度に依存する。Arg,Lys,His,Met などは比較的スクランブルしにくい。また、(Phe, Tyr), (Ile, Leu, Val) のように、数個の似たアミノ酸どうしの中だけでスクランブルが閉じる場合もある。最近は Ile,Leu,Val,Met のメチル基だけを \(\ce{^{1}H}\)/\(\ce{^{13}C}\) に、その他を \(\ce{^{2}H}\)/\(\ce{^{12}C}\) に標識し、超高分子量でもメチル基を観測する方法が流行っている (4)。Ile の前駆体として特異的標識された2-オキソ酪酸を、Leu,Val の前駆体として2-オキソイソ吉草酸を使うが、どちらも他のアミノ酸へのスクランブルは見られず、きれいな 2D \(\ce{^{1}H}\)–\(\ce{^{13}C}\) HMQC スペクトルを見ることができる。

文献

  1. Takahashi, H. et al., Nat. Struct. Biol., 7, 220–23 (2000)
  2. Studier, F. et al., Methods Mol. Biol., 1091, 17–32 (2014)
  3. Kainosho, M. et al., Nature, 440, 52–57 (2006)
  4. Velyvis, A. et al., J. Am. Chem. Soc., 135, 9259–62 (2013)
  5. 池上貴久, タンパク質実験ノート上(岡田雅人・宮崎香)202–208, 羊土社出版 (2011)
  6. ウェブサイト:「毎日エネマル」大腸菌培養の最少培地 M9 その1〜4
    http://wurstchirp.blogspot.com/2016/08/m9.html

謝辞

当プロトコールは、大阪大学蛋白質研究所の旧京極研究室の上垣浩一博士、清水真人博士、赤木謙一博士をはじめ、多くの方の趣味的努力により開発されてきた事項が含まれています。さらに、査読者との活発な discussion により飛躍的に更新されました。ここにその成果を発表できたことに厚くお礼を申し上げます。

変更履歴

2021年1月22日 変更

  • 工夫とコツに「大腸菌の成長が途中で止まる場合」および「特異的標識 specific labeling」の項目を新たに追記。
  • 「目的プラスミドの大腸菌への形質転換」「工夫とコツ:重水最少培地における(ビタミン&拡散溶液)の滅菌処理」において補足説明を追記。
  • その他、全体に渡って、語彙・文章を適宜修正・追記。

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改訂履歴

2021年1月22日 改訂

  • 「所属」を変更。
  • 工夫とコツに「大腸菌の成長が途中で止まる場合」および「特異的標識 specific labeling」の項目を新たに追記。
  • 「目的プラスミドの大腸菌への形質転換」「工夫とコツ:重水最少培地における(ビタミン&拡散溶液)の滅菌処理」において補足説明を追記。
  • その他、全体に渡って、語彙・文章を適宜修正・追記。
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